
『海が見える駅』作品サンプル その1
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「間もなく、鎧、鎧です。運賃・整理券は、一番前の運賃箱へ…」
単調な自動放送が、空いた車内に流れる。列車はスピードを落とし、小さな駅へ進入しようとしていた。
四人掛けのボックス席に、少女が一人。白いスカートの膝に、黒のトランク。リボンを巻いた麦わら帽子を傾け、顔を押し当てる様にして窓を見ている。それまで崖とトンネルの繰り返しだった車窓が急に開け、ぽっかりと青い海が見えていた。
しかし、すぐに向かいのホーム、そして雑木の茂みが景色の手前に立ち塞がり、その眼下の青色を隠してしまった。そしてそのまま、列車の動きが止まった。
「……………」
少女の名前を、夏美という。白のワンピースに包んだ細い小柄な体、頬に赤みがある地味な顔立ち。中学生に、なったかならないか……そんな年頃に見える。
夏美は席を立ち、海側をもう一度チラリと見てから、靴を小さく鳴らして車内を前へ進む。ボックス席の列はすぐに尽き、通勤電車の様な長椅子が二人分ほどあって、その横が出口。
「ハイ、ありがとう」
出てきた運転士の挨拶を聞きながら、少し大きめの切符を運賃箱へ。そして出口を向くと、開いているべきドアが閉じている。
「あ…そっか!」
一瞬遅れて気づき、急いでドアの取っ手を引く夏美。ガラリ、と両開きのドアが半分ほど開いたところで、コツ、コツとステップを降りてプラットホームへ。むわっとした外気が、冷房になじんだ皮膚に迫る。
「けど、横浜より気持ちいい……」
一歩、出口から離れて、それから列車の方を振り返る。でも夏美の他に、この駅で降りる客はなかった。駅員の姿もない。日射しを一杯に受けたホームで、薄赤色の車体が軽快なディーゼルエンジンの音を響かせているだけだった。
「あ…開けたら閉めなきゃ」
夏美が扉に歩み寄ろうとした時、前から運転士が顔を出し、乗務員用のスイッチでドアを閉めた。閉まり切ると、白い制帽をかぶったその顔は忙しげに中へ引っ込む。
「出発、進行」
指差す先に、縦に三つ目を並べた信号機が青色を灯していた。その背後に、煤けた煉瓦造りのトンネル。
エンジンの回転音が高まる。石油の燃える匂いが漂い、薄赤色に塗られた車体がゆっくり動き出す。二両しかない列車はあっさりと彼女の前を過ぎ、陽炎でグニャグニャになりながらポイントを渡って、そのすぐ先にあるトンネルへ入っていった。
「……………」
列車がトンネルの奥へ消えてしまうと、小さな無人駅は空っぽになった。列車とは逆に東へ少し歩いてから、夏美はまた線路側を向く。向かい側に、やはり野ざらしのホームがあって、あとは、雲ひとつない一面の夏空。そしてその下に、真っ青な水平線がチラリと見えている。
「海………今年も、来たんだ」
夏美が立つ位置からはチラリとしか見えないけれど、その海は、たとえば線路の向かい側へ渡りさえすれば、これでもかというぐらいに眼下に広がってくれる………早朝に横浜を出て、京都から普通列車を乗り継ぎ、つごう約八時間、六七〇.二キロという夏美の旅は、この海が見える駅が目的地だ。
「夏美ー、夏美ちゃぁん!」
その景色の端の方で、彼女を呼ぶ声がした。首をそちらへ傾ける。向かいの上りホームの東のたもと、海が一番よく見える場所で、真っ白なシャツに細いジーンズの女性が手を振っている。短い髪が似合う、快活そうな顔。反り返る様に伸びた背筋。今年で三十いくつかになるはずだが、それを感じさせない。
「叔母さぁん!」
夏美は手を振り返すのもそこそこに、長い髪をなびかせて駆け出し、線路をくぐる細い地下道を抜け、そして叔母の姿が見えるやその胸元に飛び込んでいった。麦わら帽が夏美の頭を離れ、宙に舞う。
「ちょっと、どうしたの?そんなに甘えて…」
戸惑いながらも、若い叔母の両腕が夏美の背中を優しく包む。
「…やだ。私、何やってるんだろ……」
夏美はすぐに我に返っていたが、それだけに向き合うのが照れくさくて、抱きつくのをやめられない……二人が立つ真下に、崖に囲まれた静かな入り江。そしてその先には、ドキリとする様な青い外海が広がる。遠い蝉の声と、近くで鳴く鳶の声。日射しは強く気温も高いけれど、海からの涼しい風が吹いている。
…関西から鳥取や島根へと伸びる山陰本線は、兵庫県北部で日本海に突き当たると、しばらく山がちの海岸に沿って西進する。海に突き出す山をトンネルでくぐり、それを抜けると紺碧の海が見え、集落があり、そして時々駅がある……車窓は、それの繰り返しだ。
七月下旬の午後二時前。その一角にある、鎧、という駅に、夏美は降り立った。
切り立った崖と崖との間に小さな入り江があって、それを見下ろす狭い傾斜地に、四十戸あまりの家々がひしめいている。両側は、鬱蒼とした緑の山々。細長い集落は南へ登るにつれて狭まっていき、上まで登り詰めたさらに奥に、田んぼが少々。
そんな村の中腹を線路が東西に横切り、やや西に外れた位置に無人駅が置かれている。駅の北側は急斜面になっていて、三十メートル以上の高さから、海と漁港、それに海に面した家々を見守っている…。
一帯は山陰海岸と呼ばれる地域で、夏には海水浴、そして冬には蟹が多少の客を呼ぶのだけれど、あまりに小さいせいか、この集落にはそういう向きもない。なにしろ宿どころか小学校も郵便局もなく、強いて店といえば、海辺にある漁協の支所が菓子類を申し訳程度に並べ、飲み物の自動販売機を置くのみだ。
「陸の孤島」
むしろ、そんな言葉が思い浮かぶ。一番近い他の集落まで、直線距離でも約二キロ。両側は断崖絶壁だから、海づたいの道はない。村の一番上から、薄暗い坂道をさらに二キロほど登り、岩山をトンネルで抜けると、ようやく山あいを走る国道へ出られる。しかしその狭隘な道筋すら、古くからあったのかどうか…。入り江の小さな漁港と、その漁港の真上にある駅だけが、永らく外界への細い窓だったに違いない。
もっとも、現在は車がある。国道が曲がりくねりながら山越えをしているのに対して、線路はトンネルでまっすぐ抜けているから列車の方が早いのだが、それでも町へ出る人の多くは車に乗り、駅を素通りして国道へと登っていく。山陰本線自体が長距離輸送の役割を終えたのとあいまって、特にこのあたりでは、短い普通列車が一、二時間おきに通るだけのローカル線になっている。
「冬、雪で道が悪くなった時だけのために、お情けで残してくれてるだけだ」
という説まで聞かれるが、それでもこの何年かは、一つ西隣にある名勝・餘部鉄橋が観光客を集め、行楽シーズンには列車が混む。
…しかし、この物語は今から五年以上も前の話だから、さっき夏美が乗ってきた列車も閑散としていた。
「夏美ちゃん、少し、痩せた?」
横目で夏美を見ながら、叔母が聞いた。右手に線路の柵、左手にトマトや枝豆が植わった家庭菜園の様な畑を見ながら、二人は細い道を東へ―――列車が進んできた方角へ歩いている。道はやがて緩い下りになり、集落の中腹、線路が村を上下に分けるあたりへと降りていく。まっすぐ海に向かって降りられたら気持ちよさそうだが、そちらは崖同然の急斜面だ。
「ううん、そんなことないって。……けど」
「けど?」
「なんていうか………人生に疲れた」
「もぉ、何言ってるのよ」
「だって…」
「ふふっ、中二の女の子にそんなこと言われたら、叔母さんの立場がないじゃないの」
やりとりの声は明るいけれど、夏美の表情には漠然とした蔭がある。体もこころなしか前かがみだ。身にまとう白のワンピースは丈や袖こそ夏向けだが、そこかしこがレースやフリルで飾られ、ストラップが交わる胸元には真っ黒いシャツがのぞく。それが大きな蝶結びをつけた帽子をかぶり、黒光りするトランクを提げて、今、下り坂に差しかかる………何かから身を守るかの様にも見える、装飾やアクセント。無邪気に田舎の親戚を訪ねてきた女の子にしては、いわくありげな感じが漂う。
足下の影は濃く、そして短い。降りていく先では、黒っぽい瓦屋根がキラキラと光っている。道沿いに続く紫陽花は花の時期を過ぎているが、枯れてなお鮮やかな白や青紫を残していた。
「晩ご飯までには、叔父さんも帰ってくるからね」
居間で麦茶を入れながら、叔母が切れ長の目を少し見開いて言った。焦げ茶色の戸棚や黒い柱時計が鈍く光る、十二畳の日本間。開け放った縁側から入ってくる風が、ちりん…、と風鈴を鳴らす。
「ホント?!」
夏美の返事は、いいニュースを突然聞かされたという風に裏返っている。
「あれ、お母さんから聞いてなかった?」
「うん。…何時ごろ?」
「たぶん、次か、その次の汽車だと思うけど…」
もちろん汽車と言っても蒸気機関車が来る訳ではなく、この土地の人々が列車をそう呼んでいるだけだ。でも、叔母は夏美と同じ横浜の育ちで、四年前にここへ来たばかり。姿形も化粧も言葉遣いも垢抜けしていて、そのまま横浜の街中を歩いていても変じゃない。その叔母の口からスッと「汽車」という言葉が出てきて、そして他の台詞も、字面こそ標準語ながらイントネーションは見事にこの土地のそれ………夏美にはそれが面白く、そしてなぜか、とても心地がいい。
「でも、あの人のことだからなぁ。時間もそうだけど、裏をかいて車で帰って来たこともあったし」
考え込むのではなく、むしろ少し楽しそうな眼差しで思案顔をする叔母。
彼女が「あの人」と呼ぶ叔父こそが夏美の母親の弟で、古い言い方をすれば、まあこの家の主だ。両親、つまり夏美の祖父母が亡くなり、空き家となった実家へ妻ともども帰ってきたという次第なのだが、しかしこの叔父、海辺のこの家に常時住んでいる訳ではない。舞鶴という、道のりで八十キロほど東にある港町で教師をしていて、時々、連休を作って帰ってくる。つまり叔母はその間、縁もゆかりもない僻地で一人過ごしていることになるが…
「だったら一緒に舞鶴に住めばいいのに」
以前、夏美は叔母にそう聞いてみたのだけれど、
「ふふっ、そうしたって同じだって。横浜にいた時も暇さえあればどっかへ出かけてって、家になんて寄りつかなかったから。普段も毎日、帰ってくるのがとっても遅くてね…」
時々でもゆっくり会えて、本人ものんびりできている今の方が幸せだと言わんばかりだった。
「叔母さんは、淋しくないの?」
「あら、こう見えても叔母さん、ご近所のおばあちゃんやオバチャンたちの人気者よ。少し車に乗れば買い物だってできるし、通販もあるし」
「でも…」
「それに、静かでいいところじゃない。だから夏美ちゃんも来るんでしょ?」
それを言われると、夏美は返す言葉がない。事実、この土地の真っ青な海とひっそりした空気が忘れられなくて、それで毎年、夏休みが始まる一月以上前から楽しみで仕方がないのだ。誰のどんな誘いでも、それが七月下旬の鎧行きと重なるなら断ってきた。
「鎧の叔父さんのとこへ、行っていい?」
彼女が、たまりかねた様な気持ち母親にねだり、それを初めて許されたのは小学六年生の夏のことだ。
夏美が四年生になる年の春先に祖母が亡くなると、その夏から彼女の一家は帰省をしなくなった。翌年、翌々年と年忌の集まりはあったものの、春先は曇ってばかりで海は灰色、それに大勢で集まって食事をしたり墓参りをしたりするうちに帰る時間が来てしまう。
「駅に降りて、海の方を見た時の、あの『うわー…』っていう感じだけでいいから、もう一度、夏にあそこへ行きたい…」
幸い、叔父夫婦が鎧の家に移り住んでいた。そして夏美の両親はどちらも勤めを何日も休む訳に行かず、それで一人旅になった。小学生の一人娘にそれを許す親も大胆なら、一人ででも行こうという娘の方も大胆だが、とにかく彼女はいそいそと出かけていき、七月一杯を鎧で過ごした。
「ここ、時間が止まってる…」
景色や空気はもちろんだが、学校や勉強や友達付き合い、さらには両親からも切り離された場所で静かに時が流れていくことが、夏美を虜にした。そしてその魅力に惹かれるまま、毎年夏が来るたびに、はるばる横浜から列車を乗り継いで鎧へ降り立つのだった。
だが、かといって彼女は、学校や対人関係が苦痛で疲れ切っているというタイプではない。少し晩生でボンヤリしたところはあるものの、学校では
「真面目で、それでいて明るい子」で通っている。夏休みも、鎧から帰った後は気分よく友達と遊び、趣味である風景画にいそしみ、夏期講習のたぐいにも愚痴ひとつ言わずに通う………少なくとも、去年の夏まではそうだった。
けれども、今年の夏美は日々に疲れ切っていて、それから逃れる様にして鎧へ来ている。
帰るぐらいなら死ぬ、という思いすら、彼女は頭のどこかに秘めていた。
それから、二時間経ったか経たないか。
「…着いたぁ」
集落からの道を歩いて、夏美はまた駅へやって来た。展望台を兼ねた狭い空き地があって、彼女はそこで立ち止まる。目の前に、海側の上りホームの上がり口と、山側の下りホームへ渡る地下道の入口とが並んでいる。建物も何もなく、いきなり駅という訳だ。反対側、下りホームにはコンクリート製の小さな駅舎が面しているけれど、どのみち人はいない。
ふぅ、と小さく息を吐いてから、夏美は裾をなびかせてクルッと横を振り向く。
「波打ち際もいいけど……やっぱり、ここから見るのが、一番かな」
枯れ紫陽花の向こうの眺めに、目を細める夏美。広がる外海はどこまでも青く、そして波は小さい。
雲ひとつない晴れの日は少なく、そんな日でも、昼下がりには空に筋雲が現れ始める。でも、太陽はなお空の青い部分で輝き、真下に見える碧く穏やかな水面を澄み渡らせていた。岸にある小さな漁港もひしめく家々も日射しに染まり、それらを入り江ごと囲む鬱蒼とした山の木々だけが、濃い色彩を保っている。
腰のポケットに、夏美が「下書き帳」と呼ぶ小さなメモ帳が入っていて、手が、それへと伸びていた。
「……………」
けれども彼女がそれを取り出すことはなく、やがて細い腕は元の位置に戻された。
…その夏美の背後、駅の構内だけは、早くも山の蔭に入っていて、誰もいない灰色の空間に、上下の線路だけが静かに光っていた。線路は山の手前で合流して単線になり、真っ暗なトンネルの中へと伸びている。トンネルの入口を作る煉瓦は年月に色あせ、上の方が煤で汚れていた。その横に、信号機の赤い灯。
「そうだ。もし上りホームから海が見えるとこがあれば、ちょっとだけど、高さの分だけ眺めが…」
やがて夏美は、そんなことを考えついた。海側のホームへ上がり、景色を塞いでいる木立に切れ目がないか探しては、正面を向き直って西へ進む。トンネル、そして線路の合流部分が、だんだん近づいてくる…。
「あ」
薄暗い静けさの中で、ポイントが、ぐぐっ…と動いた。上下の線路の合流部、その内側にある二本の細いレールが、ひとりでに右から左へ移動する…それがハッキリと、夏美の目に入った。
「……え?」
彼女も、他の大多数の女の子と同じく、線路のポイントなど気にしたこともない。
ただ、その動きが目に入った刹那、いつか偶然見た、昔を舞台にしたテレビドラマのワンシーンが頭に浮かんだ。少し離れた小屋で、駅員が大きな梃子を「えいっ」と倒し、それでポイントが切り替わる場面。
今見た線路の分岐部の動き方は、その映像にそっくりだった。と、いうことは…
「誰か…いるの?」
ドキリとした夏美の視線が、思わず下りホームの小さな駅舎に向かう。しかし、もちろん人の気配はない。四角い駅舎には待合室とトイレがあるきりで、係員が収まるスペースなどなかった―――いや、よく見ると詰所らしいスペースがあるにはあるのだが、薄汚れたカーテンが引かれた窓は真っ暗で、扉は錠前で固く閉ざされている。…そんなところに、人など潜んでいてほしくない。
「でも今の、ぐぐっ…ていう動き方……あれは絶対、人の手が動かしてる感じだ」
気がつくと、日蔭の色が濃くなっている。駅の山側にある林から、悲しげな蜩の声が聞こえ始めた。そして、自分の他には誰もいない…。
「やだ……」
夏美の細い脚が、真剣に後ずさりを始める。
と、その時。
「今日も、JR西日本をご利用いただき、ありがとうございます…」
短いチャイムに続き、いかにも自動放送といった音声が構内に流れた。自動放送なら、横浜の日常生活で見て知っている。
「そうだ、列車!」
次の瞬間、夏美は駅にやってきた用事を思い出した。
「叔父さん、ちゃんと乗ってるかな……去年も確か、夜遅くになってから…」
下り列車で着くだろう叔父を迎えるべく、夏美の足は地下道へ向かいかけた。が、
「中に、やっぱり誰か…」
向かいの、無人であるはずの駅舎が恐い。頭では半分バカらしいと思っていても、膝が震えて動けない。
「叔父さん…」
…玉の小さい丸眼鏡を鼻で掛けた、優しげて飄々とした顔を夏美は必死に思い浮かべる。
カタン、カタン…と、足下のレールが車輪の音を伝え始めた。トンネルと反対側、駅の東側では線路が緩くカーブを描いている。その方角を祈る様な気持ちで眺め、夏美は下り列車を待った。
U
プアァン!
「え?!」
しかし警笛は、夏美の背後から聞こえた。振り返ると、トンネルの中に二つのヘッドライトが浮かび上がっていた。列車の足は速く、あっという間に上りホームに差しかかる。あわてて内側へよける夏美。
「あれ…?」
クリーム地に赤帯を巻いた車体。夏美が乗ってきた薄い赤一色の列車とは、素人目にも印象が違う。
いつも一両か二両しかないのに、今、彼女の前に止まりつつあるそれは四両を連ね、いかにも「列車」然としていた。車体の塗装は艶を失い、そして煤の汚れが目立つ。最後尾から車掌が顔を出し、各車両の端にある片開きのドアがゆっくり開く。中高生が何人か降りてきた。カラカラカラカラ……回転の遅い、くたびれた感じのするエンジン音。
「なんだか、昔っぽい…」
懐かしい匂いに、夏美の頭は包まれていた。
「家族で来てた頃、この『遠くへ旅行』っていう感じの列車に、よく乗ったっけ」
眺めの良さそうな一枚窓の内側は、ほんのりとセピア色がかっている。向かい合わせのボックス席だけが整然と並び、デッキと客室が扉で仕切られた車内。窓際の幅が広いテーブルに、ジュースの空き缶。
「それが、一人で来るようになってからは…」
昼間乗ってきた様な、運賃箱のついたバスみたいな列車ばかりだった。ボックス席はあるが全部ではなく、テーブルも小さい。それでも旅行気分はするけれど、いざそれ以前のものを見ると、ひどく懐かしい…。
「降ります!降りまーす!」
と、どこからか聞き覚えのある声。麻の上着をまとった男が、飛び降りる様な調子ですぐ前のドアから駆け出てきた………と思いきや姿勢を崩し、ホームで尻餅をつく。
「叔父さぁん!」
走り寄ろうとする夏美の横を車掌が駆け抜け、素早く叔父を抱き起こし、後方へ戻っていった。
「もぉ、何やってるの?…だいたいなんで、上りで着くのよ」
「終点まで行ってきちゃった。いやさ、久々に汽車らしい汽車だったもんだから、名残り惜しくて…」
照れ笑いをする叔父の眼鏡に、夏美のあきれ顔が映る。ただ、「汽車らしい汽車」という言葉には彼女も同感だった。車掌の笛とドアが閉まる音とを聞きながら、夏美は再度、懐かしい車内に横目を向けた。
「列車が、どうかした?」
夏美の目の向きに気づき、叔父が聞く。古びたツートンカラーの車体が動き出し、排煙の匂いと、乏しい力を振り絞る様なエンジン音が二人を包み始めている。
「ううん。…けど、昔の列車だよね」
「昔って…まあ古いけど、まだ夏場は時々、あと冬場は毎日走るよ……ん?そうか!夏美も汽車が好きか!よしよし!」
「違うよ!家族でおばあちゃん家に来てた頃、こんな感じのに乗ってたの思い出しただけ!」
「そんな毛嫌いするみたいに否定せんでも…」
この叔父、列車であちこちを周遊するのが大好きだった。叔母が「横浜にいた頃も出かけっ放し」と言っていたのもそれならば、遠路をいとわず鎧へよく帰るのもそれだ。舞鶴とここの間には幾種類ものルートや列車があり、途中下車のしがいがある名所や古い町にも事欠かない。それで、ときに寄り道や回り道が過ぎて、帰りが遅れてしまうのだった。叔父のその部分だけは夏美も理解しかねていて、
「とにかく叔母さんを心配させないで!」
としか思えず、だから同類扱いをムキになって拒否したまでだった。
列車がカーブの向こうに消えると、叔父は元来た方を振り向き、そのままトンネルの方を見つめていた。
体型は悪くないのだが男にしては背が低く、目の高さは夏美と十センチほどしか違わない。その、細めた目の中にある瞳が、少年の様に輝いている。
「何やってるの、早く帰ろうよ!」
もちろん夏美は、そうも思っている。
けれども、叔父がこういう眼で見るものは、何かしら夏美を楽しませてくれる。
たとえば鎧近辺の海上では、インデアン島、眼鏡洞門など、海に削られた岩山が名前そのままの奇景を見せている。叔父の顔見知りの漁船に夏美も乗せられ、それらを見に行ったことがあるのだが、
「……………」
何が見えても叔父は勧めず語らず、ただ、今トンネルを見ているのと同じ顔で、その奇景を眺める。叔父がそうして見るものを彼女も黙って見てみると、それは本当にきれいで不思議だった。それで夏美がたまらず
「どうして、こんな形の岩ができたの?」
などと尋ね、そこで初めて話が始まる。ぜひ聞きたいと思ったことだから、話が面白い…。
だから夏美も、半分は何かを期待して叔父を真似ている。
それに、叔父のこの表情はとても優しげて、夏美は大好きだ…。
「!」
と、ポイントがさっきと逆の方へ、ぐぐっ…と切り替わった。思わず一歩下がり、叔父に体を寄せる夏美。
「どうした?」
「……そろそろ、帰ろ」
「ああ」
海が見える空き地へ戻ってきたところで、不意に叔父が立ち止まった。
細めた目、輝く眼差し…夏美の大好きな表情が、真っ青な外海を見ている。
「…夏美が毎年来たがるのも、当たり前だな……」
少ししてから、叔父の低い声が夏美の耳に届いた。
「うん…」
緩慢に返事をしながら、夏美も見ている。筋雲をまじえた広い空の下に、どん、と強烈な青色があって、それは岸に近づくにつれて澄んだ碧へと移っていく。山の緑はなお深く、そこから蝉の声が響いてくる。目の高さの中空に、翼を広げたまま舞う鳶。日はまだ高いけれど、カラッと乾いた空気が涼しい…。
それらが心地よいのはもちろんだが、叔父がボツッと漏らした言葉に、夏美は救われる思いがしていた。
「私と、おんなじ気持ちでいてくれてる…」
顔を真正面へ近づけて
「よく来たね!」などと言われるより、ずっと強く、ずっと素朴な歓迎の気持ちが伝わってくる………もっとも叔父は今年に限らずこんな感じで、つまり夏美は、それが変わっていないことがうれしかった。
かたや彼女の親はというと、今年も彼女を送り出してくれたものの、少なくとも母親はどこか気が進まない風だった。十日あまりとはいえ、中二になっても日常を放り出して一人で親戚の家へ行きたがる娘。それが他の子と比べて幼稚に見え、
「仲間外れになるんじゃないか」とか
「この子は大人になれるのか」とかいった心配をしている様だ。確かに昨今は中学生ともなれば、逆に親が帰省に連れて行こうとしても、友達付き合いや部活動を優先して留守番を選ぶ子が年々多くなる。
「そんなに心配しないで。それに今年は、逆に行けなかったら、私……」
そして今年の夏美は、先ほどから書いている通り、何かから逃れる様な気持ちで横浜を出てきた。気がかりだったのは、叔父や叔母の方でも彼女の年頃を考えて、親と同じ様なことを思っていないかだったが…
「…変わってない。この景色も叔母さんも……それから、叔父さんも!」
それを、夏美は今、確かめることができた。
「あのね…」
確かめて救われたところで、夏美は、自分の辛いことを打ち明けてしまおうと思った。
「ん?」
けれども叔父に振り向かれるや、急に恥ずかしくなった。
「やだ……叔父さん、男じゃん」
後から気づくのも間抜けだが、打ち明け話の最初に失恋談があって、それを異性に話すのが嫌だった。
が、何も知らない叔父は、夏美の言葉を静かに待っている。
「えーっと……」
なんでもない、と言って取り繕おうとした瞬間、さっきの、ぐぐっ…というポイントの動作が頭に蘇った。
「…さっきね、駅で立ってた時にさぁ……」
蘇るや、彼女は本気でその真相を聞きたくなった。あれは、誰がどこで動かしているのか。機械か何かで自動的に動いている様にはとても見えない…そのことを、夏美は叔父にたどたどしく伝えた。
「ポイント?…ああ、あれは福知山で動かしてるんだよ」
「福知山ぁ?!」
なんだそんなことか、という顔で叔父が口に出したその土地は、上り方面へ二時間あまり戻ったところにある。
【 サンプル2へ続く 】
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