
『大きな杉の木の下で』サンプル1/2
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車窓いっぱいに、日差しを受けて輝く黄緑色の稲田。その奥には、背の低い深緑の山々がたたずむ。山の上には入道雲がもくもくと盛り上がり、雲の右肩に、真っ白に輝く太陽。
学校帰りの晴香がこの列車に乗ってから、もう小一時間ほど経っている。始発駅は五十万都市の中心にあって、そこを出た時には向かいの席が見えないほど立ち客がいたのだが、ほとんどが最初の四、五駅で降りてしまい、長らく車内はガラガラだった。古いディーゼルカーの冷房は効きが悪く、夏場の朝夕は薄着の女性客までが
「暑い」
と言う様な代物なのだけれども、今はそれが、キンキンに車内を冷やしている。
「うーん………」
なのに、晴香の額からはまだ汗がだらだらと流れ、鬢をつたって襟元を濡らしている。しかし暑いのかというとそうではなく、顔色は、浅い日焼けを打ち消して余るほどに青白い。
田んぼの中をゆく列車の前方に、左へ曲がる少し急なカーブ。
ワンマン運転のために扉を開け放った運転台で、真面目そうな若い運転士がブレーキハンドルを引く。床下にかすかなエアの音が通り、ブレーキの作動を予告する。
ボックス席の晴香は、ギュッと目を閉じて身構えた。
キキィーゴゴォー………電車にはない独特の音が床をビビらせ、車体を揺らし始めた。音や揺れといっても知れているのだが、今日の晴香は腰を折り曲げ、顔を伏せて脂汗を流す。
「つっ…痛たたっ…」
両手が、こめかみのあたりを必死に押さえている。どうやら頭がひどく痛むらしい。
やがて列車が惰行に移り、床の響きが止んだ。
が、晴香が虚脱気味の顔をゆっくり上げたところで、カーブが終わった。運転士の左手がノッチを回す。加速のために唸り出すエンジン。むろん、その音も床や壁を震わせる。
「やめて……なんで同じ速さで走ってくれへんの」
振動が増幅する痛みに耐えながら、晴香は頭の中で運転士に恨み節をぶつけていた。もちろん恨まれる方はいい迷惑で、カーブで速度を落とすのも、それを抜けたら速度を上げるのも、普段と全く変わらない。そして、そこかしこにカーブがあるのはこの付近に限った話ではなく、また実は随所にアップダウンもある。だから列車はここまで数十分間にわたり、頻繁に加速減速を繰り返してきた。
しかし、たとえ鉄橋やカーブがなくとも、途中駅がある。
「場内注意!次、停車!」
ジリリリン!キンコンキンコンキンコンキンコン……キキィゴゴォー………
「お願いっ!やめて助けて……」
テキパキと働く運転士を、涙目で見つめる晴香。吐き気もするのか、掌で口を覆っている。
淡々とした女声の自動放送。彼女が降りる駅は、まだ三つ先だ。
「よりによって、なんで今日だけこんなにキツいんや…」
鞄と、トランペットを収めた黒いケースとが床に転げ落ちているが、それすら彼女は気づいていない。
…夏休みもなかばを過ぎたその日、急に部活が午前中だけになった。
一年生の晴香は、大はしゃぎで仲間と門を出た。噂していた駅近くのホテルのランチを食べ、教室で話題の映画を見て、さらに神戸へ足を伸ばし、ショッピングモールをハシゴするばすだったのだけれども…。
「ちょっと晴香、大丈夫?」
昼食が済んで間もなく、彼女の異変に、仲間の方が先に気づいた。
「うん…」
「うん、って、ひどい熱やんか!ムチャや!帰ろ!」
「…やだ」
「あかん!駅まで送ったげるから!」
「だって……」
真っ昼間から遊びに出られるチャンスなんて、この次はいつあるのか見当もつかなかった。彼女のいる吹奏楽部は夏休みもほぼ毎日、午前中から集まって、日が落ちかけるまで練習漬けだったから。
百人近い部員を抱えた、県下有数の強豪と言われる吹奏楽部。それぐらいになると、野球の強豪校でいきなりベンチ入りできないのと同じく、晴香たち一年生はまだバンドに入れてもらえない。それどころか決まった練習場所もなく、廊下や校舎外に場所を見つけて楽器ごとに集まるのだが、指示される練習内容たるや、長音を息が続く限り吹き続ける基礎練習ばかりだった。あとはたまに、ランニングや腹筋背筋をさせられる…それを生き延びて、かつ選ばれた者が、秋、三年生の引退と入れ替わりにバンドに入れるのだ。
そういう状況で不意にやって来た、気晴らしの機会。だから彼女は、どんなに無理をしてでも予定通りに遊び通したかったのだが……。
「……降りまーす!」
列車がさらに進み、その次の駅に止まると同時に、たまりかねた様な大声が車内に響いた。
バネ仕掛けの様に立ち上がった晴香は、床に落ちた鞄とケースを拾い、通路をズカズカ前進する。降りるべき駅はまだ二つ先なのだが、構わない。ちょうど出てきた運転士にパスケースをかざしつつ、もう片手でドアのボタンを押す。ぷしゃあー……扉が開き切るのを待たずに足がステップを飛び越し、冷房の効き過ぎた世界から勢いよく脱出。
「うっ………」
解放された、と思ったのは一瞬だけ。
頭痛に脈打つ晴香の頭を、たちまち日射しがジリジリと焦がし始めた。下から、むわぁ〜っという気持ちの悪い熱気が腹のあたりを炙ってくる。脳みそと胃の内容物とが、ぐつぐつ茹でられていく様な感覚………よりによって、そこは屋根も何もない野ざらしの無人駅だった。ガラガラガラガラガラガラ…列車の重たげなアイドリング音が、暑苦しさをさらに盛り上げる。
「お…降りるの、やめ!」
そう思って晴香が振り返ろうとした一瞬前に、背後でピシャリとドアが閉まった。待ってもらおうとして運転台の方を向くと、乗務員用の小窓がバチンと閉じられる瞬間だった。
「あ……あ………」
グォン、グォオオオガァアアアアア…なすすべのない晴香をよそに、鋼鉄製の車体がゆっくりと動き出す。いくつかの側窓と後ろのドア、そして二両目が流れていき、最後に油臭い排気ガスを思い切り彼女に嗅がせて、列車は駅から離れていった。
「……………」
陽炎の中で上と下から炙られながら、呆然とそれを見送る晴香。下りはこのあと、二時間近くない。
列車がカーブの向こうに消え、タタン、タタンという音が聞こえなくなるのと入れ替わりに、息を潜めていた蝉がぽつり、ぽつりと鳴き始めた。すると晴香の胸のあたりに、何か熱いものがこみ上げてきた…。
………うえっ、げほごほ。
胃の内容物を、彼女はホーム脇の草むらに吐いた。
ひび割れしたアスファルトの上を這って、鞄から水筒を出す。口をゆすいで吐き出し、あと一杯注いで今度は飲もうとしたら、もう空っぽだった。
絞り出された汗が顔とブラウスを濡らし、肩の後ろの肌が透けている。
「自販機で、なんか買お…」
フラフラで、残りの体力まで吐いてしまったかの様だったが、とにかく立ち上がって周囲を眺める。けれどもホーム一本きりの駅に、そんなものはなかった。そして古枕木に針金を巻いた柵の向こうは、ただひたすらに黄緑色の田んぼが広がっているだけ………わずかに、駅から出ている小径のずうっと先に、豆粒みたいな人家が二、三軒見える。が、そこまで行ったとして自動販売機などあるだろうか。
「そ、そんなあ…」
痛む頭が、ぐらり、と揺らいだ。膝の力が抜けそうで、抜けたら二度と入らなそうだった。今すぐに座るというか寝転がりたいのだが、こんなフライパンの上みたいな場所で実行したら、死んでしまいかねない。
「日陰、ひかげ……」
けれども彼女の視野に、陰影と呼べるものは全くなかった。カラカラに乾いたホームの地面、柵の向こうに止められた自転車、そして遠くまで広がる稲の原っぱ……目に映るすべてが夏日で真っ白になっているか、またはギラギラ輝いている。中にベンチを置いた小さな待合室があるにはあるのだが、小さすぎて、建物の奥まで日が差し込んでしまっていた。生温かい汗がしきりに噴き出て、晴香の乏しい体力を奪っていく…。
ただ、列車がもと来た方向だけを、彼女はまだ見ていない。
ダメモトで、そちらを振り向く。
「あ………」
高いところに、巨大な深緑色があった。
丘の上の古い小学校などで見かける、細長い三角形の針葉樹―――見上げるほどに高いヒマラヤ杉が一本、ホームのすぐ脇から天に向かってまっすぐ幹を伸ばしていた。幹からは枝たちが勢いよく伸び盛り、ホームを通り越して線路敷まではみ出している。そして枝は濃い色の葉を繁らせて光を遮り、その部分の空をほとんど覆い隠していた。
木は、やや逆光気味に日を受け、こちら側の根元に、短い、しかしくっきりとした蔭をたたえている。
「なんでこんな木が、駅のホームに?」
などと、晴香は考えない。
「ひかげ……日陰や〜」
景色の中で唯一の黒っぽい場所に向け、足が最後の力を振り絞る。
「…き、気持ちいい〜!」
木蔭に入って幹に抱きつき、その冷たさにゾクッとした次の瞬間、晴香の意識が、ふっと遠くなった。
遠くなっていくその途中で、入部してから今までの記憶が、彼女の頭をぐるぐると回る…。
2
「姉ちゃん、姉ちゃん!」
「……?」
声が、繰り返し呼びかけている。肩に、温かい掌の感触。
「誰?」
小麦色の肌とドングリみたいな両目が、いきなり目の前にあった。キスされそうなほどの至近距離。眼差しと眉のきつさに、晴香はそれが男だと直感した。
「嫌っ!」
「まだ、動かん方がええよ」
ボーイソプラノよりさらに高い声。肩を押さえる力がギュッと強まり、そのかわり、顔が一歩遠ざかる。
まだ丸みの取れない輪郭、丸首のシャツから出た細い首、短く刈った柔らかそうな髪…男には違いなかったが、まだ十歳にもならない様な男の子だった。視界の端に、ほっそりしたむき出しの膝が並んでいる。
「…助けて、くれたの?」
心配そうに晴香を覗き込む、つぶらな黒目をした幼い顔。細くて短い片腕が彼女の肩に、そしてもう片腕は額のあたりへ伸びている…そういえば、額にひんやりとした感覚がある。保健室の氷枕よりずっと小さく、冷たさもささやかだけれど、晴香は思わず目に涙をにじませた。
「俺がついとるから、無理して動くことないで」
「うん…」
キョロリとしてよく動きそうな、でも今は一心に晴香を気遣ってやまない澄んだ瞳。それに甘えて彼女は静かに目を閉じる…身も心もグチャグチャになった中で出会った、かわいらしい無償の親切。それは崩れてしまいそうなほど甘く美しく、現に、こころなしか口の中に甘みが広がっていく…
「ん?」
本当に、口の中が甘い。
生温かい液体が、顔のあちこちを伝って口に流れ込んでいる。その液体が甘ったるいのだ。口に入らなかった液体はさらに下へ流れ、首筋、そして胸元にまで、粘り気を帯びた気持ち悪い感触が広がっていた。
「なんやこれ?」
液体の源は、額らしい。
確かめたくて目を開けると、男の子と目が合った。照れくさそうに顔を背け、男の子が言う。
「…礼は、俺が食べとったアイスに言うてや」
「そんなもん人のおでこに当てるなー!」
あわてて払いのけて上体を起こし、額をこすると、溶けたアイスキャンデーが手にベットリと付いた。胸元の、骨が出っ張っているあたりの肌がヌラヌラと光り、そこに無数の小さな蟻がうごめいている。ブラウスの中がチクチクするのは、そこにも蟻が這っているからだろう…。
「もぉ、どうするんよこれ!」
晴香が食ってかかると、男の子は名残惜しそうにねぶっていたアイスキャンデーの棒を半ズボンのポケットに収め、すまなそうな顔をした。
「ごめんな」
そして一転、何かを思いついてニンマリするや、ベロリと舌を出して晴香の目の前に…
「なめたげる」
「やめろ!あっち行けー!」
【 サンプル2へ続く 】
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