
「最強おぐらあん『都の足』」 サンプル・1
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京は洛中の西、北野天満宮からほど近い一角。木造瓦葺きの古い家並みに混じって、その家はある。
まだ夕陽が射しているというのに、底冷えが路地を覆い始めている。季節は二月のはじめ。三方を山に囲まれたこの町の冬の寒気は強烈だ。
しかし、そのピリッとした寒さが、藍色に変わりつつある雲一つない青空を、とても澄んだ感じに見せている。板塀や生け垣が囲む狭い通りには、人影も車もない。遠くから、しみ入る様な鐘の音。空だけでなしに、空気までもが清浄に思えてくる………
…いや、大豆臭い。
どこかの家で煮豆をこしらえている、といった日常レベルのものではなく、生の大豆だけを大量に蒸し続ける生臭い匂いが界隈に充満している。激臭では決してないのだが、一帯の空気が完全に染められてしまっていて、窒息しそうだ。板塀の上に早咲きの梅がチラホラ見えているものの、その白く可憐な花の香りは完全にかき消されていた。
「え?これからすぐですか?!……うーん、モノはええ頃合いなんですけど………え?……そんなぁ、スーパーのなんかよりも絶対ウチの方が!………はあ、わかりました、ハイ。できるだけ早うに…ええ、お届けしますんで!」
素人下宿「小倉庵」の台所で、八重が困り顔で電話を切った。冬だというのに額には汗がにじんでいて、彼女は眼鏡を取って傍らのタオルで汗を拭く。
彼女は、寝間着にどてらという普段通りの格好で台所に立っている。
が、どうした訳かその空間は今、民家の台所とは思えない量の熱い湯気に包まれていた。そして部屋一杯に大豆の臭気が漂い、蒸気とともに隙間という隙間から外へ流れ出ていく………。
「困ったな……商売繁盛はええけど、いま配達に出たら『呉』が蒸れ過ぎてまうしなぁ…」
『春の巻』で書いた通り、文筆を業とする八重は、毎晩奇声を発しながら明け方まで机に向かっている。
が、名の通った雑誌から連載をもらえる様な大先生ではない。それどころか、あちこちの名も無き雑誌社や出版社、あるいは潰れそうなゲーム会社やウェブサイトなどから単発の仕事をかき集めてどうにか暮らしている。しかも仕事の内容たるや、鉄道やミリタリー、百合にボーイズラブといったマニアックな分野のルポ・読み物に始まり、怪しげなゲームシナリオの下書きや校訂、はたまた「二〇キロ痩せてステキな彼もできました!」といった類のインチキ臭い使用体験記………彼女が書きたいのは本格派の現代小説なのだが、それとは程遠く、そして頭を酷使する割に単価が安いものばかり。むろん紙面に彼女の名前など書かれない。
しかし、それでも彼女は夢をあきらめず、仕事の合間にせっせと小説を書いては出版社に投稿したり、私家版の小説本を出して同人誌即売会で売ったりしている。
「なあ八重さん、なんでそんなに頑張るの?」
「うーん……私の書いたものを待ってる人が、いるからかな」
「…三人ぐらい?」
「うるさいっ!」
もっとも、投稿の方はさておき、私家版の方は各巻とも数百部単位で売れていて、多少なりとも八重の生計を支えている。だから、コミケ、コミックシティと大きな即売会が続く年末年始は八月と並んで忙しい。そこで、その時期は本業を一時ストップして本作りと販売とにいそしみ、そして松が取れる頃には一年で最も裕福になっているのだが………。
「…ヤバい」
この年に限っては、印刷代や交通費、宿泊費を払ったら一銭も残らないという惨状なのだった。さんざん前宣伝していた新刊が、最大のイベントであるコミケに間に合わなかったという。
その間、本業にはまったく手をつけていない。あわてて仕事を入れたとしても、この手の稼業だと現金が入るのは二ヶ月以上先になる。
「八重、ええかげん家賃払うてくれ!」
「…ごめんなさい」
「ちょっと兄ちゃん、ウチら下宿屋で食べてる訳ちゃうんやから、そんなキツぅ言わなくても…」
「そうですよ先生」
空音と幾乃が助け船を出すも、是也は渋い顔で天井を見上げる。
「うーん…けど維持費が結構かかるのは事実なんや。実は俺の部屋、この半年ほど雨が漏るけど我慢しとるんやで」
「僕の部屋なんか畳が腐ったままなんですよ」
「巽さん、年に一度ぐらいはお布団上げなきゃダメって言うたやん…」
ともあれ築百年近い古家とのことで、修理に手がかかるのは本当らしい。
「…とにかく、今月一杯が限度や。何やってもええから払うてくれ!頼むで!」
「はい…」
と、意気消沈する八重の肩を誰かが優しく叩く。千鳥だ。
「そう落ち込みなさんな。そのうち、ええこともあるって………そうだ八重、ウチのお店でバイトせぇへん?」
「ありがと……けどウチにはちょっと、難しそうやな」
「それもそうやな。眼鏡デブじゃあ、ちょっと難しいなぁ」
「なんですってー?!」
…そういう次第で、最近の八重は夕方になると台所へ降りて、せっせと「副業」にいそしんでいた。けれども、いったい何を作って売っているのだろうか。
彼女の足下にはブリキのバケツがあって、八分目まで入った薄茶色の豆粒が水に漬かっている。大豆だ。
その横には筵が敷かれ、見るからに重そうな石臼が鎮座する。納戸で見つけたもので、家主である是也も「いつからあるのか知らん」という年代物だ。この石臼の役目は、水に漬けた大豆を挽く仕事。
そして、大量の湯気をかき分けつつその元をたどってゆくと、コンロを二口とも占領しつつ、蓋を押しのけんばかりに蒸気を吐く巨大な釜がある。これも納戸にあったもので、中では、モチ米を蒸す要領で挽いた大豆が加熱されている。蒸し上がった大豆の粉を「呉」と言い、八重が困り顔なのは、これが外出の間に蒸れ過ぎてしまうのを心配しているのだ。
ともあれ、むせ返る様な臭気を放出している大豆だが、このあとそれは流し台で絞られ、絞り汁はニガリを加えて型に入れられ、さらに風呂場のタライの中に寝かされて立派な食品になっていく………。
もうお分かりだろう、豆腐だ。
材料は大豆とニガリと容器だけ。設備は間に合わせながら、家に揃っている。そして八重は、かつて豆腐屋でバイトしていたことがあった。問題は、豆腐屋が概して早起きなのに対し彼女が夜型人間だということだが、しかし逆に普通の豆腐屋は夜に営業しない。その時間差と、配達という売り方とが
「買い忘れてた!」
「晩酌してたら急に欲しくなった!」
という需要にピタリとはまり、さらに「完全手作り」というのが評判となって、いまや昼に大豆を挽き始めてから深夜に売り切れるまで、彼女は大忙しだった。もちろん、その間を縫って書き物の仕事もしなければいけない。
「よりによって、みぃんな出かけとるし…」
眼鏡の縁に指を当て、八重はため息をつく。電話の向こうは、毎日何丁も買ってくれるお得意さんだ。
八重も含め、この素人下宿は夕方から勤めたり学びに行ったりする住人ばかりだが、今日は日曜日。
けれども、嵯峨野の茶店でバイトする幾乃は休日こそ忙しく、まだ帰ってこない。働く夜学生という姿は健気だが、しかし彼女には但馬・城崎の名家である実家から仕送りがあって、稼ぎの大半は小遣いにできる。千鳥は茶会に呼ばれているとかで、昼過ぎに起き、のんびりと支度をして優雅に出かけていった。すぐに夕方だから、そのまま出勤する気だろう。空音はさっき起きてきたと思ったら、ゲームソフトを予約すると言って河原町の方へ行ってしまった。
「…巽はんおるけど、まだ起こせへんしなぁ」
熟睡している彼を八重が無理に起こすと、
「あー、眼鏡っ娘や〜……僕、文学少女萌えです〜」
「うぎゃーっ!目ぇ覚ませこのヲタク男!!」
アニメか何かに出てくる様な女子校の制服を取り出してきて、それを着るよう寝ぼけ眼で迫ってくる。
そして、是也は学期中だというのに金曜から仕事を休み、本州の西の端まで旅に出ていた。後ほど詳しく触れるが、その旅自体はこの家の面々にとって重要な「行事」のひとつで、決して遊びに行っている訳ではない。けれども昨日の晩には帰って来られる旅程のはずなのに、今に至るまで連絡もない。
「あーもうっ、どいつもこいつも!」
思案に疲れた八重がタオルを床に投げつけたその時、ガラリ、と玄関が開く音がした。
「だっだいま〜」
空音の甘ったるい声。にわかに顔を明るくし、一も二もなく玄関へ駆けつける八重。
「お帰りなさいませ空音様〜!」
「…メイドカフェのバイトするん?ムリだよ、もう少しカワイくなきゃ」
「くっ、このアマ…」
怒りを内に押しとどめ、八重はにこやかに言葉を続ける。
「空音ちゃん、ひとつ、お願いしてええかしら?」
「配達でしょ?ええよー!」
無事に望みの品を予約できたのか、空音は上機嫌で二つ返事をしてきた。
「ホンマ?!空音ちゃんええ子やなぁ〜、ほなお願いするわ!」
叫ぶや八重は風呂場へと駆け、大きな金ダライの中の白い塊に、ちょい、と指先で触れて、
「よっしゃ、ええ具合や」
目だけで満足そうに微笑んでから、それを慎重にプラスチックの椀へ移した。
「ほな、千本今出川の交差点とこの、橋本はんな。ちょっと遠いけど、前に行ったことあるやろ?」
「うん」
「急ぎやで」
「うん、わかった〜」
椀の入った袋を提げ、空音が元気よく振り返って歩き出す。
「あ!ちょっと空音ちゃん!」
「なあに?」
「急ぐいうても、本気で駆けたらあかんよ!それ『おぼろ豆腐』いうて特に崩れやすいヤツやから、ゆっくり慎重に急いでやー!」
「おっけー」
空音はごく普通の足取りで、門の外へと歩いていった。前作で書いたが、改造人間・空音の「本気の駆け足」は非常に速い。兄の是也によれば「JRの新快速に勝てる」という話だから、どんな豆腐でも粉々だ。ちなみに『おぼろ豆腐』というのは凝固途中の柔らかい豆腐で、風味が濃く、薄めの出汁つゆと青ネギで食べるとうまい。モノの性質上、普通の豆腐屋だと早朝にしか出せないのだが、これを夕方に出荷できるのも八重の豆腐屋の強みなのである。
「ふう、やれやれ。……あ!」
一息ついたところで、また八重の携帯電話が鳴り始めた。
「はい、手作り豆腐の『小倉庵』ですが…、ご注文ですか?……………えー………」
商売繁盛はいいのだが、配達員はたったいま出払ったところだ。しかしそこで、彼女の表情にパッと陽が差した。
「あ、ハイ!すぐお届けできますよ!ご注文をどうぞっ!」
声も、ガラリと明るくなる………門の外のアスファルトに、幾乃の小さな影が見えたからだった。
「空音!あれほど慎重にって言うたやないの!」
小一時間ほど後。配達を終えて帰ってきた空音に、八重の怒声が降り注いだ。
「…え?」
「橋本はんから電話かかってきて、めっちゃ言われたで!『なんやこの麻婆豆腐は!やっぱスーパーで買うわ!』て………あーもう、お得意さんやったのに…」
「そんなぁ…」
「空音あんた、面倒になって超高速で走ったんやろ!」
「走ってへんよ!…走ったらあかん思て、わざわざお金払うてバス乗ったのに……」
「バス?!」
そこで、八重の細い目がカッと見開かれた。
「……バ、バスってあんた……………京バスのことか?」
「決まってるやん。二百円ちょうだい」
バス代を請求する空音をよそに、八重の顔が、怒りで青黒く変色し始めた。どてらの肩が、わなわなと震え始めている。
「…ウチが、ウチが一生懸命作った壊れやすいお豆腐を、よりによって京バスなんかに乗せるなんて………」
「あ……」
やや遅れて空音も何かに気づいたが、時すでに遅し。八重は彼女の胸ぐらをつかむや怒りを爆発させた。
「ご、ごめんなさい〜」
「あんたみたいなアホは、この豆腐の角で頭打って死んでまえっ!」
「そんなん無理やー……あ、痛ぁ!」
「ウチの新作、ニガリのかわりにセメントで固めた『殺し豆腐』や!」
「そんなん豆腐ちゃうわ〜」
…なぜ、バスで豆腐を運んではいけないのか。
空音がお仕置きを受けている間を利用して、この町の市民の足・「京バス」について紹介しよう。
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