「最強おぐらあん・春の巻」サンプル1



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 京は洛中の西、北野天満宮からほど近い一角。木造瓦葺きの古い家並みに混じって、その家はある。
 あちこちの玄関から勤め人や学校の制服姿が出てきては、板塀に沿った細い道を早足で歩いていく。道の先では数分ごとに踏切が鳴り、そのつど一両きりの小さな電車が右に左に通り過ぎる………毎日さも当然の様に繰り返される、あわただしい一日の始まり。
 
 だが、その家だけは、誰かが出てくるどころか、雨戸という雨戸が固く閉じられ、しいんとしていた。
 廃屋なのか。
 そう言われてみると、たしかに壁のところどころが朽ちかけていて、青い瓦屋根もデコボコしている。だが一方で、家と道とを隔てる生け垣はきれいに刈り込まれているし、その向こう側に見える小さな庭も、明らかに人の手が入っている様子だ。
 空き家では、ない。
 その証拠に、出勤や登校をする人々が道から途絶えたころ、二階の雨戸がゆっくりと動き出した。板張りの雨戸はよほど建て付けが悪いらしく、途中、ガタ、ガタ、と何度もつっかえてから、ようやく戸袋に収まった。
「ふう」
 雨戸を開けたのは、薄桃色の寝間着を着た少女だ。名を、幾乃という。
「…いい天気!」
幾乃は日の光を受けながら、気持ちよさそうに伸びをした。空は青く、綿をちぎった様なフワフワの雲が二つ三つ浮かんでいる。その下には京都らしい、緑に覆われた背の低い山。そして目の前には隣家の八重桜が咲き、その木で雀が遊んでいた。四月下旬の暖かさそのままの、のほほんとした風景。
 色白の幼な顔をした幾乃は、背丈が低いこともあって十三、四にしか見えないが、彼女はこの春から高校生になっている。しかし、高校生がこの時間に起床していたら大遅刻だろう。一年生の四月からこれで大丈夫なのだろうか………そのことは、追い追い触れる。
「寒い、まぶしい……死ぬ〜」
 と、幾乃の背後から、うめく様な小声がした。幾乃は思い出した様に振り返って、背後の二段ベッドに駆け寄った。下段で、細面の女の子が布団から顔だけ出して、目をつぶったまま声を出している。
「幾乃ちゃん電気消してぇ〜」
「違いますよ、もう朝ですよ!空音さん!」
『空音』と呼ばれた女の子が布団をさらに深くかぶろうとするのを、幾乃が止めながら呼びかけた。
「朝………何時?」
「九時半です!」
「……なんや、学校まで八時間もあるやん」
「それまで寝てるんですかっ!」
「うん!」
幾乃の体から、がくっ、と力が抜けた。その隙に空音は布団を頭からかぶる。
「………あんなあ、ウチは明け方まで忙しかったんやで」
「ゲームででしょ!」
幾乃の的確なツッコミに、空音は言葉もない。……いや、言葉はないが、そのかわり布団の下から寝息が聞こえ始めた。以降、いくら揺さぶっても空音は目を覚まさない。
「もぉ……」
 
 空音はこの家の娘で、幾乃と同じ学校に通っている。同級生だ。そして幾乃は、地方から京都へ出てきてこの家へ下宿しているのだが、言葉遣いからも分かる通り、まだ日が浅い。
 以下しばらく幾乃の行動を追いつつ、彼女の目線を借りてこの家、「小倉庵」の人々を紹介していく。
 
 部屋の襖を開けると廊下があって、左へ進むと、下へ降りる階段の向かいに流しがある。よく磨かれた焦げ茶色の床板が、歯磨きをする幾乃の足下を水面の様に写し出している。
「ぐちゅぐちゅぐちゅ……ぷぁっ」
 口の中をゆすぎ終えて、幾乃が顔を上げたその刹那、
「ばあ〜」
「きゃあーっ!」
天井が破れたかと思いきや、ばさっ、と栗色の毛の塊が落ちてきて幾乃の眼前を塞いだ。
 …毛の塊は落下を止めてだらんと垂れ下がり、根っこに上下さかさまで顔がついていた。起きていればパチッとしているだろう目が、寝ぼけてトロンと半開きになっている。それに続いてスラリとした首、細い肩があり、水色のキャミソールをまとっている。
「空気穴〜」
顔がしゃべった。泣きぼくろの似合う美人で、栗色の巻き毛がそれに妖艶な雰囲気を加えているのだが、逆さ吊りの上に寝起きでアホ面なのがいただけない。加えて、酒の残り香が漂っている。
 女の名を、関守千鳥という。夜、祇園の安からぬ店に出て、明け方に帰ってくる。
 驚いてへたり込んでいた幾乃が、その逆さで酔っ払いの千鳥に向かって、ようやく言葉を発した。
「……な、なんですか千鳥さん!」
「…いや天井裏ってなぁ、温ぅなると空気のめぐりが悪ぅてなぁ…」
千鳥はゆっくりと、まるで「ちょっと窓を開けたの」とでも言う様な、何気ない口調で答えた。
「てか、なんで天井裏なんかに住んでるんですか!」
「…暗ぅて涼しゅうて……昼いっぱい寝るにはええところやでぇ、幾乃ちゃんもどぉや」
「私は昼いっぱい寝ませんよ!」
「なんや幾乃ちゃん冷たいなぁ……もっと明るぅ受け答えせな、お店へ出ても客が寄りつかへんでぇ」
「私まだ高校生ですっ!」
幾乃の反論が聞こえているのかいないのか、ともあれ千鳥はさかさまのまま、ゆるゆると上へ戻って行った。そして天井に開いた穴の奥から、すぴー、すぴー…、と寝息が響き始めた。
「……………」
 歯ブラシを放り出して座り込んだまま、幾乃は言葉もない。
 千鳥も幾乃同様、下宿人だ。歳は二十歳そこいらのはずだが、もう少し年上に見える。店一番の売れっ娘ということで、金回りはよさそうだ。にもかかわらず、どういう訳かこの古家を出ていく気配はなく、おまけにわざわざ屋根裏を住居と決めて喜んでいる。天井の一角から廊下に縄ばしごを降ろして出入りするのだが、店がハネてから飲む酒を過ごすと、この様に出入口以外の場所へ穴を開けたり、はたまた屋根瓦の一部を突き破ったりしてしまうのであった。
 
 幾乃は、せっかく済ませた洗面をもう一度やり直すと、部屋へ帰るべく廊下を戻った。廊下は部屋の前で終わっていて、そのどん詰まり、幾乃たちの部屋の襖と直角に、もうひとつ部屋の入口がある。
「あ…また開けっ放し」
 その部屋には、九重八重という物書きの女性が住んでいるのだが、夜通し仕事をしては、襖を開けて電気をつけたまま午後まで寝ている。他人とはいえ気心が知れた者同士の所帯だし、まして二階は女性ばかりだから開いていても構わないのだが、幾乃はこれが気になって仕方がない。そこで彼女は、開けっ放しの襖に手をかけた。
「!」
 その時、幾乃の嗅覚がガス臭さを感じた。
「八重さんっ!」
彼女があわてて中へ飛び込むと、果たして室内は強いガスの臭いに包まれ、寝間着にどてらを羽織った八重が、文机の前で仰向けに倒れていた。畳の上には本や書類が投げた様に散らかっていて、足の踏み場もない。
 幾乃は急いで雨戸と窓とを開け、青白い顔の八重を揺さぶった。
「八重さん!八重さぁん!!」
しかし八重をいくら揺さぶっても、丸い眼鏡が揺れるばかりで、目や口は微動だにしない。
 幾乃はなおも八重を揺り起こしながら、昨夜寝る前に見た八重の姿を思い出していた。……仕事がある時の彼女は部屋へこもりっきりで、時折うめき声やヤケ気味な歌声が聞こえてくる。昨日もそれはいつも通りだったが、寝る前に廊下で出会った八重は、いつにも増してやつれ果て、眼だけが異様にギラギラしていた様な気がした………彼女はあの時すでに、死の決意を固めていたのか……
「……こんなになっちゃうまで、頑張らなくっても………ぜんぜん売れなくて、大変なばっかりで……おんなじ二十五でも、私のイトコなんか結婚してとっても幸せそうなのに………」
 幾乃は、八重の小柄な体を見やりながら、その不遇な生涯を哀れんで泣き出した。
「誰がぜんぜん売れてないって?」
 と、幾乃の首筋に張りのある声が響いた。
「…え?」
幾乃が涙を拭くと、八重が眼鏡の下で細い目を三角にしていた。額の端に隆々と浮かぶ青筋が、彼女の健在を雄弁に物語っている。
「八重さん!……よかったぁ!」
「ようないわっ!人が寝たとこ叩き起こして売れないだの結婚してないだのって、ケンカ売ってるんか?!」
「………よかった……死んじゃったかと思った……」
「な、なに縁起でもないこと言うてんねんっ!……ちょっと!幾乃ちゃんっ!苦しい〜…」
八重はもちろん怒っているのだが、小柄な体や丸顔が迫力を欠くためか、幾乃はかまわず八重の体にぎゅ〜っと抱きつき、今度は嬉し涙を流すのだった…。
 やがて騒ぎが落ちつき、話が本筋に戻った。
 事の真相は、八重がつけっ放しにしていたガスストーブが、なにかの拍子で火だけ消えてしまった、という次第。文机の前で倒れていたのも、執筆しながらいつの間にか寝てしまっていただけ。そして部屋が散らかっているのは、もともと………仕事以外については、まるで頓着がない女性なのだ。
「…けど幾乃ちゃん、いまの都市ガスって中毒にならへんねんで。幾乃ちゃんは、田舎から出てきたばっかりで分からんやろけど」
「そりゃそうですけど、でもあんまり充満したら窒息するじゃないですか!」
「はは、この隙間だらけのボロ屋で充満なんてありえへんて。幾乃ちゃんは、田舎から出てきたばっかりで分からんやろけど」
「ですけど、爆発したらどうするんですか!」
「大丈夫や。なんぼなんでもガス臭かったらストーブつけ直したりせえへんし、ウチ煙草やらへんから。幾乃ちゃんは、田舎から出てきたばっかりで分からんやろけど…」
「あとの二つは田舎と関係ないじゃないですかっ!………ちょ、ちょっと八重さん、寝ないで聞いてくださいよ!起きてくださいっ!」
 ……こうした受け答えにも、八重の無頓着さがよく出ている。
 
 濃く、かつ明るい青色のブレザー、その下にベスト。ブラウスの首に巻く飾りは、リボンとネクタイから選べる。幾乃は入学してからネクタイを締めていたが、今日はなんとなくリボンにしてみた。今年の一年生は、赤いリボン。
 上着と同じ色をした、膝下までのスカート。本当はスネの中ほどまで丈があるのを、折って詰めてある。
「…落ち着かないなあ」
本当はこの丈の短さに違和感があるのだが、流行に精一杯従っている、というところか。
 制服に着替えた幾乃は、もう一度流しに出る。先週から、ごく薄く、ほんのちょっとだけ、ファンデーションと口紅とを塗ってみている。初てだからおっかなびっくりで、思った通りうまく行かない。結局今日も二十分以上鏡とにらめっこした挙げ句、洗い流してしまった。
「千鳥さんに、教わりたいんだけどな…」
だが、この家で唯一化粧をするその人は、幾乃と寝起きが正反対なので、なかなか機会がない。
 そうして外出の装いを整えた幾乃は、白い壁に沿った急な階段を一階へと降りた。降りて電気をつけると、廊下の床板が飴色に照らされる。歩いていくと、突き当たりに暖簾が垂れていて、分けて中へ入るとそこは台所だ。
「…寒っ」
 火の気もなにも、今朝最初にやってきたのが幾乃だから無理もない。幾乃は冷蔵庫の前に吊ってある白いエプロンをかぶると、気持ちを切り替えるように、後ろをギュッと勢いよく結んだ。
 …ハッハッハッハッ……
 幾乃が鍋に水を満たし始めた時、入口の方から、犬の様な呼吸が小さく響いてきた。しかし水の音のせいで、彼女の耳には届かない。
 水が入った鍋をサッとコンロに置き、ガスをつけて、パラパラと煮干しを放り込む。
 …ハッハッハッハッ……
 豆腐をまな板に乗せた瞬間、ようやくその音が幾乃の耳に届いた。しかし、この家に犬はいない。それに、自分の背後、台所の入口の方からその音はするのだが、降ってくる様な高さから聞こえてくる。犬にしては背丈がありすぎる、と幾乃は思った。
「…ハッハッハッハッハァハァハァハァハァハァハァ……」
 ぞくっ!と幾乃は背筋に寒さを覚え、同時に入口がある斜め後ろへ体ごと振り返った。
 ……背が高くスラリとした、今風のいい顔を持つ若い男が立って、幾乃に微笑みを投げかけていた。彼女も含め、若い女性が十人いれば九人は振り向くといったところだ。朝っぱらから、パリッとした白のジャケットにシルクの赤いシャツを決め込んでいる。顔がやや寝不足気味だが、美貌には全く影響がない。
「う、…宇治山、さん……」
 男は、幾乃に名を呼ばれてもそれには反応せず、かわりに、やや遅れて口を開いた。
「メ………」
その一文字を聞くや、幾乃は顔を引きつらせ、じりり、と一歩後ずさりした。と同時に、爽やかだった宇治山の微笑が突然、涎を流さんばかりの下品な笑いに変わる。
「メイドさんや……幾乃ちゃん、メイドさんやったんですねぇ〜〜!ハァハァハァハァハァハァハ………」
「わ、私、メイドさんじゃありませんってばっ!」
 幾乃は必死に身をちぢこませた。宇治山巽というその美男子は、瞼は半開きのまま瞳孔だけを光らせ、幾乃のエプロン姿を鑑賞している。制服の青色と白いエプロンとの重なりが、寝起きの宇治山をしてそう見させるらしい。
「…恥ずかしがるところが、また萌えますねぇ〜」
「やめてくださいよぉっ!」
 このところ一番この被害に遭っているのは、この、エプロンをした幾乃。だが、数日前には制服姿の空音が彼に出くわし、
「婦警さんハァハァです〜」
と鑑賞されていた。本来活発な性格である空音は宇治山に足蹴りを食わせたが、
「あぁ、もっと〜……僕を、逮捕してください〜」
かえって催促される始末だったのだ。………コスプレ好き自体は横に置くとしても、一にメイドさん、二に婦警さんというのはなかなか倒錯した好みである。
 ただし、どちらにしても宇治山は鑑賞するだけだ。現に今日も、一分ばかり幾乃を眺め回しただけで、宇治山は寝ぼけまなこに戻って自室へ去った。
「………はぁ」
 幾乃は、ガクッと力を抜いた。そして湯が沸く音に気づき、急いで豆腐を切り始めた。
「…あの趣味と、それから学校に行ってくれたら、いい人なんだけどなあ……」
 宇治山巽。美青年の上に、身なりもよい。おまけに、スポーツ万能だという。さらに京大薬学部へ現役で入り、現在三年生という秀才である。ただし回数で言うと五回生で、しかも三年近く学校に行っていない。のみならず家にこもって、パソコンでゲームをやったりアニメを観たりの夜型生活という有様だ。たまに出かける時もあるが、行先は近所のオモチャ屋か、近ごろゲームソフト店やメイドカフェが点在し始めた寺町界隈、または大阪の電気街(というかヲタク街)であるところの日本橋。ゲームソフトやDVDのほか、女性の姿をした樹脂製の人形を買ってきては塗装して悦に入っている。
「お金は、どうしてるんだろう」
 宇治山に対して言いたいことはいくつもあるが、幾乃が一番疑問に感じているのは、そのことだ。
 たしかに謎と言えば謎で、バイトに出ている様子もないのに、ヲタクな買い物を好きなだけするのはもちろん、一階の一番いい部屋にいて、家賃を溜めることなく払っているそうだ。実家が大金持ちなのか…と幾乃は考えたことがあるが、空音によると、金持ちどころか彼には両親がいない、という話なのだ……。
 
 やがて、豆腐とネギの味噌汁が出来上がった。台所に朝の食卓らしい香りが漂い、幾乃が入ってきた時よりも暖かくなった。
「♪」
 京風の白っぽい味噌で作る豆腐とネギの汁は、幾乃の好物だ。この家へ来て初めて味わって以来、すっかり気に入ってしまった。楽しそうな顔で味噌汁をよそい、椀を机に置くと、向きを変えて茶碗片手に炊飯器の蓋を取る。
 ところが。
 ご飯をよそって机に戻ると、味噌汁のお椀が空になっている。
「……………」
 幾乃は驚かず、空のお椀が乗った机をにらみ据えた。怒色とあきれ顔とが混じった表情。そして急にしゃがみ込むと、ばさっ、とテーブルクロスをまくり上げた。
「逢坂先生っ!!」
 机の下には、肩幅の広い中年男が丸くなっていた。大きなギョロ目をさらに見開き、口の中をなにかでいっぱいにしている。
「ほはんわまだひゃ?」(訳:ご飯はまだか?)
「自分でよそってください!お味噌汁もですよっ!!」
 男は口いっぱいに溜めた味噌汁を飲み込むと、不満そうな顔で机から出てきた。酒の残り香が匂っている。
 男にしては、背丈が低い。着物姿で、伸ばした髪を後ろへ流して束ねている。要するに江戸時代の学者みたいな出で立ちだが、着物が着崩れして無精ひげが伸びているせいか、とてもインチキくさい感じがする。それ以前に、机の下に隠れて味噌汁を頬張っている時点で学者からはほど遠い。
「ケチやなあ…よそってくれたってええやないか」
「言われなきゃよそいようがないじゃないですか!」
「なにもそんなに怒らんでも……教師いうたら教え子にとって親も同然、それが腹を空かせているっちゅうのに…」
「親が机に隠れてつまみ食いしますかっ!」
 ……やりとりから分かる通り、この男は幾乃が通う学校の教師だ。と同時にこの家の主、つまり幾乃にとっては大家でもある。名を逢坂是也といい、歳は三十代の半ば。先ほど空音をこの家の娘だと紹介したが、彼はその親ではなく、ずいぶんと年は離れるが兄である。両親は早くに亡くなり、間にいた兄弟姉妹は結婚して家を出て、長兄の是也と末娘の空音だけがここに残っている、という次第だ。
「…ごちそうさま。うまい夜食やった」
「もう朝ですよっ!」
 食事を済ませると、是也は満足げに部屋へ戻って行った。そして、ほどなく廊下に彼のいびきが響き始めた。彼が勤めるのは定時制高校で、出勤はたいがい夕方だ。それをよいことに、夕方まで寝て朝まで飲んでいる。
 ………つまり、その教え子である幾乃も、定時制の生徒。だから彼女は、この時間に家にいても遅刻ではないのだ。
 
 幾乃は手早く後片付けを済ませると、階段を上がり、二階の自室へ戻った。そして空音がくるまっている布団を横目に、机の横から鞄を取り上げて部屋を出た。
 靴を履いて、玄関に立つ。そこで幾乃は髪をなびかせてくるりと振り向き、誰も起きていない家の中へ
「行ってきまーす!」
と言ってから、
「……おやすみなさい、か」
と溜息まじりに訂正した。そしてガラリと戸を開け、あわただしい足取りで出かけて行った。彼女はこれからアルバイトへ向かい、昼下がりか夕方に、学校へ向かう。


サンプル2へ続く




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