『ナギっ!』サンプル1/2




 ぴょこぴょこ跳ねながら駆けていく相手を追って、私は真っ暗な穴に飛び込んでいた。穴は、とても長かった。もう地球の真ん中あたり、ううん、もうじき地球を突き抜けて、頭を下にして歩いてる人たちのところへ………
 なんて、二世紀前の小生意気な女の子みたいなこと言ってる場合じゃない。
 第一、この穴は下じゃなくて真横に延びてるし、私も前へ向かっている。
 それに私が追っかけてるのも、ぴょこぴょこ跳ねてるけど、例のウサギとはだいぶ違う。頭に生えてるのは、不細工な三本の結び髪。チョッキや上着を着てはいるが、他に、背丈の割に長過ぎなマフラーが首にぐるぐる巻きついている。時計も金の懐中時計なんかじゃなくて、細い腕に不似合いなGショックもどきだ。
「ナギぃー、もっとゆっくり歩いてー!」
 私は、前をゆくその生物に向かって叫ぶ。自分の声が暗闇にこだまする。闇は、ほのかに煤臭い。
「あ、しのちゃんゴメン」
 子どもじみた高い声を返して、ナギは飛び跳ねる様な小走りをやめた。リズミカルに板を叩く様な足音が、じゃりっ、じゃりっ、という音に変わる。足の痛みをこらえて大股で歩いていた私は、やれやれと歩幅を元に戻す。ナギの背中まで、わずか十メートル前後。なのに、小柄なシルエットが辛うじて見えるだけだ。
「なぁ、出口まだなん?」
 苛立ちながら問いを発する私。このトンネルだけでももう三、四十分、その前を含めると、かれこれ二時間近くも歩いている。
「もうすぐじゃけん、大丈夫大丈夫」
「さっきも『もうすぐ』て言ってたろぉ!マジな話、一体あどれぐらいな?」
「えーっとな………あ!」
「え?」
「そうじゃ。小さい頃な、汽車でトンネルへ入るたんびに、息止めて頭ん中で、いーち、にーい、さーん、て数えんかった?エヘ…私な、四歳ん時にもう百まで数えられたんよ!」
…だからどうしたの?こめかみを震わせつつ、私はそう叫びたいのを飲み込む。
「けどこのトンネルはな、百まで三回数えてもまだ続きよるけぇ、じゃけん、やになって泣いちゃったんよ」
「めっちゃ長いが!何が『もうすぐ』じゃあ!」
 でも、もはや戻るにも遠過ぎたし、それに今は、ナギについていく以外に助かる方法はないのだ。
 ぐったりと頭を垂れて腕時計のバックライトを点けると、本当なら家でお風呂に入っている頃だった。
「お風呂か…」
湯船に浸かって体を伸ばす感触を思い出すと、嗚咽がこみ上げてきそうになった……寒さは、さっき森の中を歩いてた時より楽になったものの、それでも膝から下が冷たくてちぎれそうだ。ごつごつした砂利の上を歩き続けてきたせいで、足首や足の裏が悲鳴を上げている。サックスのケースを提げた左手はしびれ、つまずいてレールにぶつけた右腕がじんじんと痛む。そして、はらわたが絞られる様な空腹。
 かたや、十数メートル先をゆくナギは元気そのものらしい。横や斜めに突き出た三本の結び髪が、かすかに見えるシルエットのてっぺんで楽しげに揺れている。砂利を踏む足音は軽やかで、マーチのリズムを取っている様にすら聞こえた。
 その元気さに私が励まされず、むしろイラついてすらいるのは、この状況を作った張本人が彼女だからだ。
「今度だけは、絶対に許さないんだから…」
 六つの時に、同じ町へ越してきた同士。それ以来、溝に落ちたり学校に遅刻したり蜂の大群に追われたり…と、ナギはまるで疫病神の様に、いろんな巻き添えを私に食わせてきた。ただ、彼女に悪気はないのが伝わってくるから、結局いつも苦笑いで済ませてきた。…でも、今回はあまりにもひどすぎる。三時間あまり前、市内で汽車に乗り込んでからのナギの行動は、ヘタをすれば命にかかわることばかりだった。そのせいで山の中の線路を何時間も歩く羽目になり、さらにその道中でも、さんざんな目に遭わされてきたのだ…。
 …と、前方の足音がまた速くなり、枕木から枕木へぴょこぴょこと飛び歩きを始める。
「ちょっとナギ、走るな言うとるじゃろ!」
 ナギは惜しむ様な気配とともにステップをやめ、ふたたび普通の歩幅でレールの間を進む。十メートルほど遅れて、私もその後ろを歩いていく。

 闇の中に、ナギと私の足音。コポッ、コポコポ…どこかを水が流れる響き。時折、滴が砂利を叩く。
 それらとは別に、シュン、シュン…という小さな音が、私の耳に届いてくる。
 湯気が漏れ出す音…違う。金属が擦れ合う音…でもない。音源の距離や方角すら分からないのだが、とにかくトンネルに入った頃から、ふと気づくとそれは聞こえていた。はじめは汽車が来てる音じゃないのかと思って焦ったけれど、何度も聞こえたり止んだりするばかりで、何も現れなかった。
 一体、何の音だろう………ナギに尋ねてみようと思ったものの、音はあまりにもかすかで、彼女もそれを聞いているという自信が持てなかった。



 放課後、ホルンを吹くナギと二人で、市内のお寺まで演奏をしに行った。
 正確には、同じブラスバンド部のトロンボーンとトランペット、フルートの三人とあわせて五人でだ。
 そのお寺の住職さん夫妻は、里親、つまり、いろんな事情で親と暮らせない子どもたちを預かって育てている。私たちはそこへ、ボランティアでミニコンサートをしに行ったのだった。

 私の中学には「ふれあいの時間」という授業があって、二年生全員が二学期に、五人の班でどこかを訪ねてボランティアをしなければならない。同じクラスのブラスバンド部員からなる私たちの班は、ミニコンサートをすることだけは早くに決めたものの、訪問先の割り当てからあぶれ続けていた。学期中にどこへも行けなければ、冬休みに町内一周のゴミ拾いだ……私たちは焦り始めていたが、なぜかそれ以上に、この授業を仕切っている学年主任の先生はもっと焦っていた。
「目的はボランティアじゃろ、他のことも考えてぇな…たとえば掃除ならな、頼める先が二、三あるけん」
 そんなことを言い出していた先生が、十二月に入ってから、市内のお寺へ行く話を持ってきたのだ。
「急に無理なお願いした相手先じゃけん、失礼のないようにな」
「はぁい!」
唐突だったし、どんな場所か想像もつかない不安はあったが、曲目を探してアレンジして練習して…という今までの苦労が無駄にならなかったことを、ともあれ私たちは喜んだ。
 ただ、ナギだけは、
「しのちゃん…どうしても、行かんとダメ?」
私と二人だけの時に、さも不安げな顔で気乗りしないことを告げてきた。
「大丈夫じゃ。コンクールじゃないけん、ミスっても心配いらんて」
「……………」
元気が出ないナギ。耳の上や脳天からピョコピョコと突き出た結び髪が、垂れ下がり気味に見える…。
 不安がるのは、無理もない。彼女は、早い話がヘタクソだった。本番や全体練習の時、サックスの右端の私とホルンの左端のナギとは隣同士なのだが、時々とんでもない音程を平気で吹く。そのくせ曲調と無関係に息が人一倍強くて、違うパートの私が釣られそうになるぐらいだから、同じパートはたまらないだろう。ナギ以外のホルンは全員おとなしい一年生の男子だったから、面と向かって文句が出ないだけだ。
「そこは『ド』じゃろ!ナギが吹いとるのは『ミ』!」
「え…『ド』なん?」
「譜面見たら分かるじゃろぉ!」
「……分からん」
茶色いビー玉みたいな瞳をきょとんとさせて、ある日ナギは私に言った。彼女は楽譜が全く読めなかった。
「これじゃ、音外して当たり前じゃあ…」
手を替え品を替えして読み方を教えてみたけど、無駄だった。結局、ところどころ音程が外れているという自覚を彼女に持たせたことと、「スカす」―――無理そうな音を吹かずにやり過ごすのを教えたにとどまり、あとは練習のたび、彼女がうまくスカせるかどうかをビクビクしながら見守り続けてきたのだ。
「そんなナギが、これじゃ恥ずかしい、って思うようになったんだ…」
 その時は、そうとしか考えられなかった。正直なところ、最初は『ナギを班に入れたくない』という空気もメンバーの中にあって、それを何とかここまで持ってきたのは私だ。ナギを不安がらせるのは本意じゃないけど、そのぐらいの気持ちは持ってくれなきゃ友達として立つ瀬がない。
 …そうしてテストから数日経った今日、連れられるまま汽車で市内へ行き、そのお寺に着いたのだった。

「こんなとこでサックスやトランペット吹いて…大丈夫なの?」
 お堂の隣に建つ木造の二階屋。会場になった部屋は、私の家のリビングより広いとはいえ、ただの居間でしかない。しかも窓のすぐ先に、隣や裏手の家が見えている………そこに、上は小学校の高学年から下は三つ四つの幼児まで、十人近くの子どもが集まった。対するこちらのレパートリーは、半世紀前のジャズやポップスのヒットナンバー。老人ホームみたいな場所を考えてばかりいたせいだ。
 白髪混じりの優しそうな住職さんが私たちを紹介し、先生の長い挨拶、そして班長である私の一言が終わって、いよいよ本番になる。オープニングは、私のソロで始まるジャズの名曲。譜面を開きながらリードに口を当て、ふと視線を斜めへ振ると、楽器に目を輝かせた小さい子が至近距離に二、三人。
「…うれしいけど、そんな近くで聞いたら驚くよ」
そう思い、私はいくらか弱めに出だしを吹いたのだが、それでも子どもたちは驚いて飛びのき、泣きそうな顔になった。あわててさらに息を絞り、テンポも落とす。メロディーを吹く私がそれだから、続くメンバーたちも忍び足みたいな演奏になる。世界一陰気でスローな「イン・ザ・ムード」。
 いや、空気を読めていないパートが一人いた。
 ホルンだけが、これでもかというぐらい力強く天井を震わせている…あっ、また外した。
「ちょっと、ナギ!」
 ギュッと目をつぶり、真っ赤な顔で吹きまくるナギを肘で思い切り小突く。さっき飛びのいた子が、とうとう泣き出した。それもあってか、そこでようやくホルンの音量が絞られる。泣き叫ぶ子どもを誰かが連れ出し、適度な音量で演奏が進んでいく。途中でチラリと隣を見ると、ナギの浮かない顔が目に入った。自分のパートが目立たない箇所をほどんどスカしている。
「ちょっと、強く言い過ぎちゃったかな…」
 どうにか一曲を吹き終え、パラパラと鳴る拍手に私たちは顔を上げた。
 後方に座る小学四、五年ぐらいの少年と少女が手を叩いていたが、しかし顔に生気がない。残りの幼い子たちは、進行と無関係に駆け回ったり寝そべったりしている。人の良さそうな住職さんは拍手しながらニコニコ笑うだけで、はしゃぐ子たちを止めようともしない。廊下越しに響いてくる泣き声の主は、いつの間にか二人に増えていた…。
「あーあ、泣いちゃった」
 まん丸い目で泣き声の方角を見つめながら、ナギがポツリと言った。
「お前が泣かせたんじゃろ!」
…でも、それを抜きにしても場の空気は全くの予想外で、次の曲をどう始めたものか私は迷ってしまった。裸で、人前に立っている様な気分。
「ねえ、何かフォローしてよ!」
そう思ってサブリーダー役の仲間を見ると、向こうも同じ目でこちらを見つめてくる。先生はオロオロした顔で、住職さんと私たちとを交互に窺うばかり…。
 すると突然、隣で楽器が鳴った。振り向くと、ナギが桃色の唇を懸命にゆがめて、身近で聞き覚えのあるメロディーを絞り出している。
「ドラえもんじゃ!」
五つぐらいの子どもが指差して叫んだ直後、音が甲高く外れた。満場の笑い声。トランペットの子が、とっさに楽器から外していたマウスピースで後を引き継ぐ。吹き口だけでメロディーが奏でられることに息を呑む少女。そのラッパ風の音が面白いのか、踊る様な足取りで近づいてくる小さい子…。
 そのまま、一発ネタを発表する会になってしまった。チャルメラ、汽車の警笛…幼稚な男子たちが練習の合間にふざけてやっているバカげた行為を、せがまれるまま強要される私たち。身振りと楽器でオナラの真似をして男の子の喝采を集めるナギに、四人の冷ややかな視線が集まる。子どもと一緒になって公演をぶち壊した張本人。しかも、あんたが吹けるように曲をアレンジするのに、どれほど苦労したと思ってるんだ…。
 そのさなかに、幼い女の子が一人、ホルンを吹くナギに歩み寄ってきた。
「ん、吹きたいか?」
 面白げに目を見開き、吹き口を女の子に差し出すナギ。女の子はマウスピースを奥までくわえ込み、見よう見まねで四本のロータリーを押さえつつ必死に息を送る。もちろん音は鳴らない。
「まずはな、口の当て方が違うんじゃ」
ナギは笑いながら楽器を自分の方へ戻すと、女の子の唾で輝くマウスピースに唇を当て、フォン、と柔らかい音を出してみせる。そして女の子の口にマウスピースをあてがい、唇の形を見せて真似させようとする…と、彼女の眼がふと客席を向いた。
「ん?…みんなも、楽器吹くか?」
 さも気軽な口調で、他の子たちに呼びかけるナギ。
「吹くー」
「僕も」
 子どもたちが、たちまち私たちのところへ集まってきた。
「え?!」
「ちょ、ちょっと…」
 私の前へ来たのは真面目そうな少女一人だったけれど、トランペットやフルートは見る間に二、三人に囲まれてしまう。よちよち歩きの子がトロンボーンに目を輝かす。目当てはもちろん、前後に大きく動かせるスライドだ………メンバーの誰もが焦った。キイやバルブが壊れたり奥の方へ唾が入ったりしたら、万単位の出費になる。親に怒られること請け合いで、その間練習もできない。ひとりナギだけが、女の子を抱きかかえてホルンを好きに触らせている。ほほえましく美しい光景だけれど、彼女は手先がえらく器用で、家にある物を使って自分で分解掃除をやってしまえるのだった。
「こら、高い楽器じゃけん…」
 ようやく住職さんが、子どもたちを注意した。救われたと思ったものの、続く言葉は
「大事に触らせてもらうんじゃぞ」
 …もはや、ダメだとは言えなかった。このクソ坊主、そしてナギ。
 住職さんが見ていてくれることもあって、子どもたちもそう無茶はしなかった。けど、値打ちも使い方も知らない子に触らせるのはやはり恐い。いじり回されるよりは「楽器教室」の方がマシだと思い、そう簡単に音が出るものじゃないと知りつつ、私たちは子どもの前で必死に唇の形を作ってみせる。
「ギャハハハ、変な顔!姉ちゃんアホじゃあ!」
 爆笑する男の子を相手に、トロンボーンの子が唇の形を作ったままプルプル震えている…お願い、耐えて。
「さっきのあの人みたく、お手本見せて下さい」
 私が相手を務める少女が、ナギを指差しながらサックスを向けてきた。リードはもちろん、彼女の唾液でテラテラ光っている………こういうのは、生理的に苦手だった。
「きゃあっ!唾入れちゃダメ!」
 叫びながら楽器を取り上げるトランペットの子。もちろん、取り上げられて泣く子どもに悪気はない。
 フルートの子に至っては言葉すらなく、うち震えながら涙目を見せていた。音楽室のスリッパを一組、自分専用にしている潔癖性。唾どころか、キイに他人の指紋が付くだけでたまらない気分だろう。
 やり出しっぺのナギだけは、相変わらず平気で吹かせたり触らせたりしている。他のメンバーがなぜ神経質になっているのか…いや、神経質になっていることすら気づいていないはずだ。
 そのナギが懸命に教えていた女の子が、一瞬だけホルンを小さく鳴らした。
「うわすげー」
「私も吹きたーい」
…ようやくサックスに飽き始めていた私の前の少女も、ふたたび熱を取り戻してしまった。


サンプル2へ続く




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