※サンプルにつき、脈絡のつながる範囲内で一部を省略しています。

「紙一重のわがまま」サンプル1



プ ロ ロ ー グ

 その年、その土地では、ちょうど七月一日に梅雨が明けた。もちろん、例年よりも早い。
 
「…暑いなぁ」
 綾美は、人の肩にもたれていた頭を起こして、左手の扉を見上げた。暑い、と言っておきながら、丸い目を気持ちよさそうにとろんとさせている。鉄の扉には小窓があって、異様なほど鮮やかな空の青だけを四角く切り取って彼女に見せていた。
「うん…」
 葉月が、綾美のつぶやきに同意した。が、同意はしたものの、彼女もまた暑いという表情はしていない。眼鏡の下で、もとから細い目をさらに細め、眠り猫の様な表情を作っていた。
 やがて、綾美が元通りに葉月の肩へもたれ、そのまま二人は静かになった。葉月の色白の手が、綾美の黒い前髪を、つい、と撫でる。
 放課後。階段を登り詰めたところにある屋上の塔屋で、二人はぴったりと寄り添い、壁を背に足を投げ出して座っていた。窓といえば扉の小窓しかなく、蛍光灯は一つを残して切れ、薄暗い。そして空気は、井戸水の様にひんやりとしている。小窓さえ覗かなければ、外で梅雨明けの夏空が広がっているなどウソみたいだった。
 遠くから、はしゃいだ話し声や運動部の掛け声が、別世界の出来事の様に響いてくる。女だらけの職業高校ゆえ、はしゃぐ声は黄色く、部活の掛け声も一オクターブ高い。
 
 ややあって、今度は葉月が先に声を出した。
「来週から期末だな」
「…うん」
綾美は目を閉じたまま、やや遅れて返事を返す。そう言われてみると、運動部の掛け声は普段よりも小さかった。
「………綾美、今日の簿記の授業、ちゃんとノート取った?」
「…………………………」
「これっ」
 葉月は、小さい子を叱るかの様にそう呼びかけ、綾美の短い結び髪を軽く引っ張った。その振動で綾美は目を開け、渋々といった表情で傍らの鞄を引き寄せると、やがてだいぶ使い込んだ一冊のノートを取り出した。ノートが綾美の色白の手から、葉月のさらに白い、しかし母親の様なふくらみを持つ五指へと渡る。
 膝の上でノートを広げるや、地味で大人びた造りをした葉月の顔が、ぎゅっ、と曇った。
「……ノートは、科目ごとに分けなきゃダメって言ったがぁー」
「だって、めんどくさいけぇ」
綾美はけだるそうな口ぶりで答えを返すと、また葉月へ寄りかかり、あどけなさの残るつぶらな瞳を天井に向けた。葉月が、口をとがらせて言葉を続ける。
「それに、また落書きばっかしとるー…これじゃ中学のときと変わらんがぁ」
言いながら葉月の腕が伸びて、「コラッ」とでもいう風に、綾美の前髪を、つい、と撫でた。
「えー、変わったよ」
「どこが」
「そこ、問題は写しとるけぇ」
「……答え書いてなきゃ、なんにもならんがー!」
「けど問題写してきたけぇ、葉月に教えてもらいやすい」
「あんなぁ………」
互いが持つ外見のせいもあるが、二人のやりとりはクラスメートの語らいと言うより、さながら中学校の新米教師が出来の悪い生徒に絶句させられている図だ。
「………この次こんなだったら、もう教えてやらんよ」
 ただし、この「先生」はだいぶ綾美に甘い。葉月はそう言いながらもポケットからペンを取り出し、前へ垂れようとする長い髪をサッと一掻きすると、ノートの問題文の下へ解答を書き込み始めた。
「…いい?ここはな……」
「うんうん…」
 がらんどうの塔屋の中に、二人の声が響く。この春、同じ中学から入学してきて間もなく、二人はこの場所を見つけた。それ以来、ここで葉月に甘えて過ごす時間が、綾美の高校生活の中で唯一の癒しになっていた。
 
 
 
 米子、というこの物語の舞台は、西日本の日本海側にある。山陰地方の要衝をなすちょっとした町だが、米子駅近くの狭い市街を除けば、平べったい農村地帯が海までずうっと広がるばかりだ。
 暑さ寒さはあまり厳しくないが、天気が変わりやすくて、一日中晴れる日は少ない。一番極端なのは秋口で、薄日が射したかと思うと真っ暗な雷雨になり、あわてて軒下に隠れると雨が止んで………といった天気がしょっちゅうだ。
 ただし、梅雨明けからお盆までは、晴天が続き、夏陽が照りつける。
 
「暑いよぉ…」
 その夏陽の下を、綾美の後ろ姿がだらだらと歩いていく。短い結び髪が垂れて、気落ちした犬のしっぽの様だ。
 道はセンターラインこそないものの、片側一車線ぐらいの幅があって、時折、車が通る。両側には、欠けた歯の様に民家や商店が並び、建物のすき間にネギ畑が見え隠れしている。
 空が広く、前方の見通しもよい。ただし陽炎がさかんに立って、遠くの景色をぐにゃぐにゃに曲げている。
 やがて後ろ姿が、くるり、と左へ折れた。
 ………一転、建て込んだ家並みの間を抜ける細い通りになった。黒みがかった板塀や、木造の民家が両側に続く。品があって、一見、京都かどこかの町家を縫う路地の様だ。しかし納屋や土蔵が見えたり、ニワトリの声がしたりすることで、ようやく農村の一角だということが分かる。
「…ふへぇ…やっと家だ……」
彼女にとってこの眺めは、家がもうすぐなのを示す象徴になっている。と同時に、田舎であれなんであれ、綾美はこの風景が好きだ。あとで述べるが、彼女が描く「絵」の背景にも、こことおぼしき板塀の通りがよく登場する。
 どこかで、少し気が早い蝉の声。塀や家並みに囲まれたその道は直線だが、途中に一度だけ、緩いS字のカーブがある。それを過ぎると空が少し広がり、道の向こうに、深緑の杉並木が見えてきた。杉は家々の屋根より数倍高く、隙間なくそびえ立って壁をなしている。
 その壁の向こうは、海。
 いま、この瞬間も、エメラルド色の水面が次々と波を繰り出し、真っ白な砂浜を洗い続けているはずだ。そして今日は、梅雨明けのくっきりした青空。海はキラキラ光っているだろう。
「海に、行こうかな……」
 綾美の家は、この通りの途中にある。家の前から海辺まで、二百メートルぐらい。そびえ立つ杉並木をくぐり、大きな道路を越え、松林を抜けると、海岸だ。日本海に突き出ているこの半島の東海岸。「弓ヶ浜」と呼ばれ、前は紺碧の海、そして左右どちらも見渡す限り、白い砂浜が弧を描いてずうっと続いている。
 晴れた日の弓ヶ浜も、綾美のお気に入りの風景だった。
「…行こう」
 綾美はそう決めた。ブラウスの小さなふくらみの下で、心臓が軽く高鳴り始めている。
 
「綾美!」
 そこで、彼女を呼ぶ声がした。張りのある、小学生の男の子みたいな声音。
 綾美が振り返ると、長い板塀をめぐらせた大きな二階屋があった。塀や壁が逆光で黒くなっているせいか、威圧感すらある。お年寄りが「お屋敷」と呼ぶのを綾美は聞いたことがあるが、その言葉通り、このあたりでは飛び抜けて立派な、そして歴史のありそうな家だ。
 その屋敷を囲む板塀の一角に、木戸がある。その戸が開けられ、黒ずくめの人間が立っていた。
「綾美、おかえりー」
 綾美と同年代の様だが、スラリと背が高い。その体を、七分袖の真っ黒なジャケットと、やはり黒色のぴったりとしたスラックスで包んでいる。頭には中折れ帽があって、本体もリボンも黒かった。
 上着の下は白いTシャツだが、丸首の襟に沿って異様に太いネックレスがかかり、飾りを施した銀の大きな十字架をぶら下げている。そして両の二の腕と首の付け根には、銀の金具が突き出た革ベルトが黒々と巻き付く。さらに、足下も黒の革靴。おまけに肌もやや色黒で、帽子の下の髪は、色こそ赤茶ながらバッサリと短い。
 ………男と見まごうばかりの出で立ちだが、胸や腰まわりの曲線は女性のそれでしかなく、顔も、下顎が小さくまとまった少女らしい輪郭をしていた。
「…唯香理?……唯香理でしょ!」
 綾美は、ぽつり、と相手の名を呼んでから、迸る様に声を強めて、もう一度その名を言った。唯香理と呼ばれた少女は、
「おひさー!」
と元気よく声を出し、二重のパチッとした目をうれしそうに細めた。…目鼻立ちがはっきりした、情熱的な顔立ち。小学生のころ、男子たちに「焦げパン」とはやし立てられていた小麦色の肌が、いまではかえってよく似合っている。
「うん!……おひさ!」
 綾美は結び髪を揺らして、三歩、四歩、と唯香理に近づく。六歩で、二人の距離は五十センチほどになった。綾美の目の高さに、唯香理のスラリとした首がある。
「………えーと、元気?」
「うん、元気!」
 唯香理というこの少女は、綾美の幼なじみで、そして小学校までの同級生だった。一年と数ヶ月ぶりに会うせいか、唯香理は目を丸くしたまま綾美の姿を見つめている。
「綾美、その制服かわいいなあ!」
「…えー、そうかな?」
上から下までしげしげと見回されるものだから、綾美はなんだか恥ずかしい。
「ってか綾美、高校行けたんだ」
「高校ぐらい行ける!」
「ふふ、冗談冗談」
 
 ………引っ込み思案だった綾美は、幼稚園のころからいつも唯香理にくっついていた。唯香理は逆に、男子と喧嘩して相手を泣かせてしまう様な女の子で、かばいがいがあるせいか、綾美の存在が愛おしくて仕方なかった。
「天国に行っちゃったけど……ホントは私に、双子の妹がいたんだって。だから私、綾美を代わりに妹にする!」
「うん、綾美、唯香理の妹になる!」
文字通り、彼女は綾美を妹の様に大切にした。学校が辛いとか、好きな異性ができたとか、綾美に悩み事ができるたびに、唯香理が自分の家へ連れていって、日が暮れるまで聞いてやっていた。
 ただし、毎日の様にそうした関係を持てたのは、小学校までだ。唯香理が米子の市内にある私立へやらされたので、中学は別々になった。
「…唯香理、私ら、ずっと友達だよ……」
「そ、そんな泣くなぁ!違う学校行くだけで、すぐ近所がぁ!」
唯香理の家、それから学校帰りに寄り道した近所の浜辺で、二人は変わらぬ友情を誓った。
 しかし、お互いが違う世界を持つようになったことは、やはり二人の距離を遠くした。唯香理は剣道部に入ったり学習塾へ通い出したりして、平日も休日も暗くなるまで市内から帰らない。綾美の方も葉月と出会い、彼女と過ごす時間が長くなった。それでもはじめのうちは、たまに会えば昔の様に、そのまま唯香理の部屋へ行って話し込んだものだが、やがて唯香理の家に寄ることもなくなり、家へ着くまで歩きながら話をするだけになる。悩みの相談といった話題も失せ、テレビの話などのおしゃべりばかりになった。
 もっともこうした変化には、唯香理の母親の態度も絡んでいた。勉強時間が減るということなのだろう、唯香理の母親は彼女を私立中学へ上げたころから、綾美を連れてきて長時間話し込むのを露骨に嫌がり始めていた。痩せたその女の人の、針で刺す様な眼差しを綾美は覚えている。
「『うちは周りの家とは違う』なんてお母さん言うけぇ……いまどき何様だ、って綾美も思わない?!」
そんなふうに、綾美は唯香理から聞いた。唯香理の家は、大昔にこのあたりの地主だったそうで、周りの家と違うというのはそれを指しているらしい。
 ………だが、唯香理がそれから無難に中学へ通い続けたかというと、そうではない。それは綾美も聞いていた。
 中三になったばかりのころ、別の知り合いから
「唯香理な、学校に行かないで、家に閉じこもっとるんだって」
という話を聞いた。
 家には行きにくくて、そして当時はお互い携帯電話も持っていなかったから、綾美は仕方なく、自分の母親に聞いてみた。
「お母さん……最近、唯香理のお母さんに会った?」
「どうしたの?」
「あのな…唯香理が最近、学校に行ってないって話を、聞いたけぇ……」
「……そう言えば荒尾さんの奥さん、最近あんまり見ないなぁ…」
唯香理の姓は、荒尾という。
「…何度か買い物で見かけたことはあるけど、立ち話する間もなく、いなくなっちゃうのよ……まあ、あんたや唯香理ちゃんが中学へ上がったころから愛想はなかったけど」
「ふうん」
 どうやら本当らしい、と綾美は思った。
「綾美、行ってあげたら?」
「………うん」
 しかし、唯香理の母親にどんな顔をされるか、ということを考えると、唯香理の家を訪ねることができなかった。引きこもっているというのは本当の様で、表でばったり出くわすという偶然も起こらなかった。
 そうして、そのままずるずると一年以上、綾美は唯香理に会わなかったのだ。
 
「………」
「…ふふふっ」
「な、なによぉ…」
「だって綾美が先に、急にニヤニヤして」
「それは、だって………ふふっ…あははっ」
「あはははっ」
 二人は無邪気に再会を喜び合っていたが、一方で綾美は「唯香理があれからどうしたのか、いまどうしているのか」ということを知りたくて、それを切り出すタイミングをうかがってもいた。
「……えっと、唯香理はさぁ………」
 自分を見つめている唯香理に向かって、綾美が途切れ途切れに言葉を発した。いままで訪ねもしなかったやましさや、聞いたらまずい状況だったらどうしよう……という気持ちが歯切れを悪くしている。
「あ、心配かけたよな。けど、私も高校行けたけぇ大丈夫!」
しかし、唯香理は何事もなかったかの様にポンと答えて、綾美の肩を軽く叩いた。
「高校、って………」
……けど、その格好は?………。あどけない眼差しを疑問に曇らせて、綾美は唯香理の二重まぶたを見上げる。
「…学校に、戻れたの?」
「まさかあんなとこ…。東高の定時に行ってるんだ。で、もうすぐ学校」
「あぁ、それで」
説明はついた。その定時制高校に制服がないことだけは、綾美も知っている。
「……………」
 唯香理が元気そうなのは、分かった。ハキハキとした口調はすっかり元通りで、去年、噂を聞いていなければ、何事もなかったのと同じかもしれない。ただ、定時制に行った友人というのは初めてで、未知のものへの違和感をちょっとだけ感じはしたが。
 しかし綾美の中には、まだ、別の気になることがある。
 たとえば、ギョッとする様な真っ黒のジャケット。暑そうだということを抜きにしても、異様な感じがする。
「昔の唯香理とは、ちがう」
 かつて唯香理がこの季節にしていたTシャツに半ズボンという姿も、たしかに普通の女の子とは違っていた。が、真夏の太陽みたいな明るい雰囲気があって、唯香理の気質を見れば納得が行った。
 しかし、いまの格好は、
「なんだか……悪魔の使者、みたい…」
そんな雰囲気がして、綾美の知っている唯香理とは相容れなかった。胸でギラギラと光る十字架や、腕に巻き付く革のベルト………そういった装飾も、以前の彼女の趣味とはかけ離れている。
「……変わったのは、服装だけなのかな……」
 一瞬だけ、綾美の胸にそんな不安がよぎった。
「綾美、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
 それから二人は、そこに立ったまま昔話に花を咲かせた。お互いの近況も話題になったが、唯香理が興味深げに次々と質問をしてくるので、綾美はほとんど唯香理の近況を聞けなかった。
 唯香理の家の大きな樟が、二人が立つアスファルトに涼しげな蔭を落としていた。
 結局、綾美は海を見に行こうとしていたのを忘れてしまった。


サンプル2へ続く




作品紹介ページに戻る

.

[PR]人気コスメ・化粧品が当たる:人気の美容グッズが選ぶだけですぐ当たる