『ハイケンスのセレナーデ』作品サンプル





 プシュウ………バタン。
 エアの抜ける小さな音がして、二枚折りの細長い扉が閉まった。冷たい夜風が遮断される。
 そして、列車が動き出す……と思ったが、動かない。
「…あれ?」
普段、通勤電車に乗っている感覚でそう思った時、前方から
「ポゥ」
と短い汽笛が響いた。そして、ガクンという小さなショックに続き、ようやく列車が前へと動き出す感覚があった。
「あぁ、客車か…」
思わず口にしたものの、別に感慨はない。折り戸の細い窓から外を見る。薄暗いプラットホームの景色は、ゆっくりとだが、たしかに後ろへと流れ始めていた。やがてホームの屋根が途切れ、うっすら積もった雪が目に入る。レールを踏む車輪の音が次第に速まってゆく。
「…間に合うたぁ」
 僕はそこで自分の状況を思い出し、大きく息を吐くと、デッキの壁へ寄りかかった。
 真冬の深夜。この列車は、東北地方の日本海側を大阪へと走っている。大阪に着くのは、翌朝の十時過ぎ。


=中略・この間の筋書き=


 北国の海沿いの町まで出張に来た僕は、余った一日で気ままな小旅行を思い立ち、途中下車をしながら付近の冬さびた海辺をうろついた。しかし宿で時刻表を写す時に見間違えをしていて、大あわての挙げ句、やっとの思いでこの寝台特急『日本海4号』の客になったのだった。
「余計なことせんと、さっさと飛行機で帰っときゃよかった」
 今日に疲れ、帰ればすぐ仕事があるのを憂いつつ眠ろうとした時、車内放送のチャイムが聞こえた。その音色に、僕は懐かしい気分を覚える。
「昔はアホみたいに鉄道が好きで…行列して夜行の自由席に乗っちゃあ、年中あっちこっちへ…」
今の僕からすれば不思議で仕方ないのだが、十数年前の僕は熱狂的な"鉄道少年"で、田村という仲間と二人、学校の休みのたびに方々へ出かけては何日も帰らなかった。チャイムの音色は、その当時に夜行列車でよく流れていたものだった。
「『ハイケンスのセレナーデ』、って、田村が言うてたっけ」
 そんな時代の一コマ―――初めて寝台車に乗った夜行急行『だいせん』の晩を思い出しつつ、僕は眠る。



=ふたたび本文=

 話は、寝台特急『日本海4号』に乗った現在の僕に戻る。

「きゃっ」
 かわいらしい声を夢うつつに聞いて、目が覚めた。
 真っ暗だった。読書灯は自分で消した様な気もするが、しかしカーテンは間違いなく開けっ放しだった。それが今は、ぐるりと僕の寝床を覆っている。
 足下のあたりで何かが動き、続いて体に向かって倒れてくる気配。
「?!」
脚に誰かの温もりが触れ、両肩のすぐ脇にドスッと手を突く音がしたかと思うと、すぐ真上の闇に焦げ茶色の瞳が見えた。
「誰や!」
僕は相手の体を突きのけて飛び起き、寝台の枕側、つまり廊下側に身を縮めた。同時に読書灯のスイッチを押す。
 白い明かりが、窓側の壁に寄りかかる小柄な女の子を映し出した。
 そういえば、突きのけた時の感触が妙に柔らかかった。顔かたちからすると十三、四……いや、もっと年下かもしれない。
 あどけない女の子と知って僕は警戒を緩めたが、しかし向こうにすれば不法侵入がバレた訳だから、逃げ出すか、観念して下を向くべき場面だろう。なのに彼女は、左右バラバラに曲げた脚をスカートから投げ出したまま、色白の顔を堂々とこちらに向けていた。きゅっと結んだ小さな唇。丸い目の中の焦げ茶の瞳が、僕を警戒する様な厳しい色をたたえている。
「……君、だれ?」
とりあえず、そう聞いてみた。
「……………」
だが、彼女は僕をにらんだまま黙っている。くっきりとした二重まぶたが目つきを余計に険しくしている。
「列車が揺れて、よろけたんか?」
彼女はやはり黙っていたが、かすかにうなずいた様にも見えた。
 どうやら強盗のたぐいではないらしい。無賃乗車して隠れて回っている、といったところだろうか。だがこの、まるで僕が侵入者であるかの様な表情はどういう訳だ。最近は小中学生までが春を商ぐと聞くけれど、もしそれならこんな険悪な態度は取るまい。…とにかく、この招かざる客を何とかせねばならないが、しかし無理やり突き出すのも後味が悪そうだし、かと言ってすすんで車掌へ「自首」してもらえる様な言葉は思い当たらない。
 レールを踏む車輪の音とともに、刻々と時間が過ぎてゆく。女の子の方も、きつい眼差しのまま何も言わない。レースやフリルで飾られた黒のチョッキとスカート、白い長袖をまとい、手首に銀の鎖を巻いた腕、そして縞模様のハイソックスに包まれた両脚………口だけではなく、まばたき、それに呼吸で胸が小さく波打つ以外は、すべてが少しも動かなかった。
「手ぶら?」
「……………」
 ふと思い立って質問し、それを女の子が黙殺したあと、僕は手を伸ばしてカーテンを少しだけ引いた。窓の手前にかかる梯子の脇に、四角いトランクと、その上に掛けられた黒のコートとが見えた。梯子と窓との間にはテーブルがあり、金属の飾り物をつけた真っ黒い鳥打帽が乗っている。そして床には、底の厚いゴツゴツした革靴。
「金ないけど我慢できんで、好きなバンドか何か追っかけて大阪へ、ってとこか……ムチャしよるなあ」
荷物と女の子のファッションとを目だけで交互に見ながら、僕はそう見立てた。すると彼女が急にいじらしく思えたが、僕はあえて何食わぬ顔を作り、
「席なら、ようけ空いてるよ……あぁ、君、一人で切符よう買われへんのやな。ほんなら車掌さん呼んで来たげるわ」
そう言いながら、今作ったカーテンの隙間へ膝で歩み寄った。
「…呼ばないで」
 果たして、女の子が口を開いた。しかし表情は変わらない。弱々しげな澄んだ声だが、語尾に芯の様な強さがあって大人びた感じもする。
「遠慮せんでもええよ。今、呼んでくるからな」
構わず僕はカーテンをめくり、スリッパを履くべく寝台の下へ足を出す。
「やめて」
柔らかい手が上腕を掴む感覚。見ると、女の子がすがりついていた。きつい眼差しの丸い目にも、少し哀願の色が漂い始めている。
 それを見て、僕は動作を止めた。
「無賃乗車やな、お嬢ちゃん」
彼女は、こくりと頭を垂れた。黒く見えていた短い髪は、少しだけ脱色してあった。
「どこまで行くんや」
「……分かんない」
「分かんない?大阪ちゃうのか」
「かもしれない」
「…家出やな。そやろ」
「……………」
口を開くと、彼女はとても正直だった。僕の見立ては少し外れたが、となると、なおさら放っておけない。
「何があったか知らんけど、こんなことしちゃアカンよ」
 僕は今度は本気で、スリッパを履いて立ち上がろうとした。
「行かないで、お願い」
女の子が小さく叫び、僕の背中と腕とを引っ張る。
「あかん」
「私が自分で、自分で車掌さんのとこへ行くから!それで…」
「それで?」
自分から行ってくれるなら、それにこしたことはない。僕は少し気を緩めて彼女の方を振り向いた。
「それで、『あんたに引っ張り込まれてエッチなことされた』って言ってやるんだから」
「え?!」
 脅しの利いた低い声。彼女の顔は前よりもずっと目の前にあって、瞳が恐ろしい色にギラギラ輝いていた。
「……………」
 ただでさえ空いている車内は、すっかり寝静まっている。目撃者なし。彼女の立ち回り方次第では、その言い分が通りかねない。そして、彼女のギラギラした眼を間近に見ていると、それぐらい平気でやってのけそうな気もしてくる…。
「…やなガキや」
僕は顔を背けて捨て台詞を吐いたが、女の子はそれには答えず、素早く床に降り立った。
「上へ荷物しまうから、見張ってて」
トランクを持ち上げながら、彼女が命じてくる。僕は渋々と座る位置をずらして廊下へ首を出したが、すぐに横目で振り返ると、彼女は小柄な体をよろけさせながら目一杯背伸びをしていた。おまけにブラウスは小さい子が喜びそうなフリルで飾られていて、それが黒い上下とセットの一種のファッションだと知っていても、やはりただの子どもにしか見えない。
「そんなに恐れることもないか…」
そう思い直して、僕が立とうとしたその瞬間、
「変なことしたら、どうなるか分かってるわね」
大人びた鋭い声音が、ナイフが突き刺さる様にして僕を襲った。
「…やっぱ、この子は何するか分からんわ……」
 僕は、観念して元の位置に戻る。女の子はコートと靴を上段に載せ、トランクとともに奥へと追いやっていたが、
「来たわよ!」
小さく叫ぶや、いきなり僕を寝台の中へ押し倒した。勢い余って彼女も一緒に倒れ込んでくる。カーテンが素早く閉められる。……コツ、コツ、コツ、コツ………言葉通り、車掌らしき足音が近づいてきた。
「……………」
 寝台の幅は七十センチほどしかない。女の子は僕へ斜めに覆い被さって息を潜めている。真横に焦げ茶の瞳、フニャッとした生温かい感触。耳の下に彼女の息がこもって、暑い。僕は恋心の様な動悸を覚え始め、次第に息苦しくなってきていた………もちろん、こんな幼い子に欲情する様な趣味はない。斜め下に彼女の後れ毛が見えていて、そのあたりからラベンダーの香りがかすかに漂ってきている。
「…あの時のあの人と、同じ瞳、同じ匂い―――」
動悸は、『だいせん』の寝台車に現れた一人の女性を思い出したからだった。



 十数年前の、あの晩。
「失礼しまぁす」
 その、二十歳ぐらいの女性がやって来たのは、僕と田村とがB寝台に腰を落ち着けて間もなくだった。
 初めての体験に、僕らは大はしゃぎだった。車内をカメラに納めるのはもちろん、駅で外へ出てドアの上の星マークをバックに記念撮影までして、やっと席に着いたところだった。指定席と違い、ここは普通列車扱いの区間でも寝台券がないと入れない。だから車内はウソの様に静かで、車輪の音が静かに響くばかりだ。
 とにかく僕らは、振り返ってその細身の女性を見上げた。
「あ、下段の人ですか?」
あてがわれた寝台は三段のうちの中段だったが、下段には人がいなくて、それで僕と田村は向かい合わせに座って中海の船灯りを眺めていた。
「…まあね。でもまだ寝ないから、どうぞそのままで」
女性は少し低めの声でそう言うと、スリムのジーンズに包んだ腰を僕の隣に下ろした。肌の色が濃い、明るくて活発そうな顔。
「よっ、と」
彼女は、左肩の小さなザックを外して足下に置く。次いで赤のスタジャンを脱いで脇へ丸めると、女らしい肩や胸の曲線が姿を見せた。下は丈の短い、ぴちっとした薄手の白いセーター。ほっそりした首のあたりから、ふわりと香水のいい匂いがした。それがラベンダーの香りだと知ったのは、何年も後のことだ。
「寝台は、空いてるわねぇ」
 茶色が混じった長い髪を掻き上げながら、女性は二重のくりっとした目を天井に向けてつぶやいた。僕らは同時に
「ええ」
と答えたが、田村だけが早口で言葉を続ける。
「周遊券使うて自由席に乗ろういう客が大半やのに、自由席は、普段よりも増やしてたったの二両。それでこんなガラガラの寝台なんか四両も…逆にすべきですよ。こういうとこは民営化しても感心しない形のままですよね。せっかく客車列車なんですから、もっと……」
そのおかげで寝台が取れたのを棚に上げ、田村は鉄道マニア丸出しの批評をぶち始めた。僕はどこで止めに入ろうかとドキマギしたが、女性は澄んだ焦げ茶の瞳を田村に向けて
「へえ…そういうことなんだ」
などと楽しそうに相槌を打っている。
 それが終わると、女性は田村から僕へと視線を移し、
「あなたたち、とっても鉄道が好きなのねぇ」
と感嘆する様な声を上げた。
「ええ、まあ」
僕はうつむいてボソボソと答える。駅や車内といった目立つ場所で妙な行動を取るせいか、とかく鉄道マニアというのは奇異に見られがちで、田村はさておき僕は、普通の人に対して気後れを感じていた。それにこの時は、自分に向けられる女性の視線と声がこそばゆくてたまらなかった。僕らは男子校に進んでいたので、年の近い異性を隣に置いて話をするなんて一年近くないことだったのだ。
「そんなに卑屈になることじゃないわよ。私、うらやましいな」
その声に、僕は恐る恐る顔を上げる。と、なぜか彼女の茶色い黒目は下の方、僕の胸のあたりをじいっと見つめていた。
「………?」
 僕がドキドキし始めたその瞬間、彼女が僕の胸元にある物体を指差して言う。
「…こんなすてきなカメラ持ってて、長いお休みと出かけるお金があって…学生さんでしょ?」
 そういえば、ごつい一眼レフを、首から提げたままだった。それを眺める彼女の快活そうな顔は、本当にうらやましそうだ。僕は、彼女こそ学生だと思っていたので聞き返そうとしたが、うまい言葉がとっさに出てこない。それで、
「カメラなら、こいつの方がスゴいですよ」
と、田村の方へ話を振ってしまった。
「へえ、見せて見せて」
女性がうれしそうに、スマートな体を田村の方へ伸ばす。
「いや、そんなたいしたもんやなくて…」
彼は照れ笑いを浮かべながらも、サッとファインダーの方を向けて彼女にカメラを差し出した。
「そこを適当に、ギュッと回してもらえます?」
「…うわ、すごい!」
 斜め前で、女性が無邪気に望遠レンズを試している。首に掛けたままで触らせているから、田村の胸のすぐ前に彼女の顔があって、長い髪が彼の膝頭をなでている。
 彼も緊張しているはずだが、しかし僕と違うのは、それでも如才なく言葉や動作が出せることだ………違うと言えば、カメラもそうだ。僕のカメラがごついのは、伯父からもらった二昔前のオンボロだから。躯体は傷だらけだし、フィルムの巻き取りがうまく行かずに何度か痛い目にあっている。しかし、田村のそれは高校の合格祝いに買い与えられた新品で、今、女性に試させているレンズは暮れに新調したばかりの三〇〇ミリ。砲口の様なその太いレンズは中古でも十万近くする品だった。
「……やっぱり、どんな家に生まれるか、なんかな………」
 当時、彼に対して時々感じていたことを頭に巡らせながら、僕は、笑っている女性の唇や整った下顎、小麦色の首筋や胸元のあたりにかけて、ぼんやりと視線を上下させていた。
「浅黒いけど、きれいな人やなぁ…」
と、女性と向き合っているはずの田村と目が合った。彼も同じところをチラチラと気にしていたのだろう。自分の恥部を鏡で見た様な気分がして、僕らはどちらからともなく目をそらした。
 目をそらした先は車窓で、建物の間に街の灯りが見えた。列車はスピードを落としている。
「米子、米子に着きます。お出口は左側、1番線…」
このあたりで一番大きな駅で、列車は三十分近く停車する。何人もの客が降り、そしてそれ以上に何人も乗ってくるはずだが、もはや僕らに居場所の心配はない。適当なタイミングで各自の寝台へ行き、あとはぐっすり眠るだけのはずだった。
「彼女が寝るか、下段のもう片方に客が来るか、そのあたりが潮時かな………まだ全然眠くないけど」

 米子でも、下段のもう片方には客が来なかったし、隣の女性にも寝ようという気配は見えなかった。そして長い停車の間、僕らは列車の全景を撮るべく元気一杯で車外を駆け回っていた。
 …なのに、米子を発車して間もなく、僕は早くもカーテンを閉めた寝台中段に座っていた。
「しーっ!」
 ちょっと首を突き出せばキスできそうな間近で、例の若い女性が僕を見つめ、自分の唇に人差し指を立てている。ついさっき、廊下に革靴の足音が聞こえるや彼女が急に僕の寝台へ転げ上がり、僕らにも上がってくる様に言ってきたのだ。
「……………」
適当な距離を置いて座っているものの、天井が低いので前のめりにならざるを得ず、それで顔がすぐそばにある。体温とともに、彼女の香水の匂い、ラベンダーの香りが伝わってくる。
「…ハイ、ありがとうございます」
 廊下では車掌が、一つ前寄りの寝台に乗ってきた客の検札をしていて、今、それが済んだらしい。コツリ、コツリ………靴の音が、僕らの寝台の方へ向かってきて、止まった。僕は、ごくりと唾を飲んだ。が、当の女性はくりっとした丸い目を見開き、小さい子が押入れで冒険を楽しんでいる様な顔をしている………。
 幸い、車掌はすぐに靴音を鳴らして去っていった。たまたま立ち止まっただけらしい。
「お姉さん、サツマノカミですか?」
 真横から、田村の声がした。彼は僕の背後から頭だけを出し、同じ距離で女性と向き合っている。
「無賃乗車、ですよね」
田村のマニアックな言葉を、僕は彼女に向けて翻訳した。平家物語に出てくる歌人・薩摩守忠度(ただのり)が由来の業界用語だが、今ではもう死語だろう。
「うん。まぁね………ちょっとお金がピンチでさぁ。助けて」
無邪気な表情のまま、彼女は事もなげに僕らに答えた。ただし、焦げ茶色の黒目には懇願する様な色があるし、両手は顔の前で神妙に合わせられている…。
 僕は彼女を見たまま黙りこくった挙げ句、斜め上の田村へ「どうする?」という視線を送った。


【 サンプルはここまで。以降は12/30発行の本編をお楽しみに! 】




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