(1のつづき)




 ターミナル駅の置き引きからラッシュアワーを狙ったスリまで、駅や車内を利用した泥棒稼業は多々あるけれど、その中で俺がやるのは「ブランコ」という種類の変形だ。遠距離通勤とおぼしき酔っ払いを介抱して電車に乗せ、カモが眠り、そして車内が空いた頃を見計らって財布の中身を頂戴する。
 普通は、大船、高尾といった近場の当駅止まりが多い駅で待ち、空になった電車の車内かホームのベンチで仕事をするのだが、当時は今よりも駅員の目が多く、俺には難しく思えた。駅員ならよほどの新入りでない限り、見ればすぐに怪しいと分かる。反対に、東京を出てまもない車内で、混雑で人目が届きにくいのを利用して財布を抜く方法もあるが、昔、スリが乗客たちに捕まって降ろされる場面に立ち会ったことがあり、それを思い出すと恐くてできなかった。
 そこで俺は考えた。重症の酔っ払いから行先を聞き出し、あるいは酔って眠るまま乗り過ごさせ、熱海や三島、大月、高崎、宇都宮…といった東京通勤圏ギリギリまで行く列車に乗る。やがて車内が空き始める。そういう電車はボックス席だから、真向かいの席や真横のボックスにさえ人がいなければ誰にも見えない。車掌がたまに通るものの、急行券や指定券をチェックする訳じゃないから客の顔など覚えていない…そんな車内で、熟睡を続けるカモの懐から悠々と財布を取り、千円札を二枚ばかり残して紙幣を抜き、懐に戻す。そして次の、なるべく大きな駅で降り、他の客に混じって乗り越し精算を済ませ、改札を出るのだ。
 精算所で駅員に顔を見せるのは危険に思えるが、一度にやってきた客を次々にさばかなければいけないし、酔っ払って訳が分からない客に手こずったりするので、単純な乗り越し精算の客の顔など記憶に残りようがなかった。そして財布自体と精算ができるぐらいの金は盗らずに残してあるから、カモの方もすぐには気づかず、被害を届けたとしても翌朝以降の話になる。が、日を置いて駅員や車掌が心当たりを聞かれたところで、ますます何も覚えていない…。
「ばかに『駅員は覚えていない』『車掌は覚えていない』と自信たっぷりに決めつけるじゃないか」
 そう言われそうだが、俺には確信すらある。
 なぜなら、この俺自身がかつて駅員で、そして今は車掌をしているからだ。
 地方の高校から国鉄に入って、この年で七年目。それがどうしてブランコなどに手を染めているのかは、追い追い書いていく。


 …ともかく、そんな訳だから、三島という女の帰宅先は、それだけを見ればピッタリだった。この時間に三島まで行くには大垣行きに乗るしかなく、俺はその大垣行きで仕事をするつもりだった。ただ問題なのは、彼女がカモとしては若すぎることだ。せしめた金が往復の切符代を割り込むようでは意味がない…
「ねえ!送ってくれるの、くれないのぉ!」
 女が、大声でわめき出す。大阪行きの「銀河」に乗るのだろうか、タクシーを降りて北口へ向かう人影が相次ぎ、それらが驚いた様にこちらを見ていく。
「分かったよ」
 事を収めるために、俺は女を引き上げながら立った。
 とたんに、全体重をかけて女がしなだれかかってくる。
「自分で歩けよ」
「歩いてるわよぉ、酔っ払いらからって、バカにしてるんれひょ!」
 背中を覆ってくる体温は異常に熱く、酒の臭いとあいまって気持ちが悪い。女性固有の柔らかな触覚が、かえってその気持ち悪さを増幅する。痛ぇ!肩にかかった手がギュッと爪を立ててきた。周囲から集まる好奇や嫌悪の視線…いい年の男女が人前でベタベタからみ合って歩くようになるのは、ずっと後のことだ。
 ただ、間近に見ることで、女の黒いスーツが意外に高級品であることに気がついた。前が半分はだけ、ブラウスの襟がだらしなくはみ出ていたが、よく見ればフォーマルな感じが存分に漂うダブルで、皺ひとつないウールの生地が女の肩のラインにぴたりと沿っている。少なくとも既製服じゃないだろう。
 爪を立てた指に光るリングも、若い女の割にシンプルだが安物ではなさそうだ。
 組んだまま通ろうとする女を後ろに回し、改札へ。さすがに職員パスという訳にはいかず、適当に買っておいた切符を中年の駅員に差し出す。鋏の動きを指先に受けつつ、俺は女を振り返る。
「この紋所が、目に、入らぬかぁ〜」
 パスケースを駅員の鼻面にグイグイ押しつける女。駅員はしかめっ面を、彼女ではなく俺に向けてきた。女を引っ張りざま、俺はパスケースの中身をチラリと覗く。
 新幹線定期券3ヶ月 三島−東京 58.11−30まで有効 湯坂舞衣子22才 221620円。
 売れない演歌歌手みたいなウソくさい名前だが、ともあれ本物の新幹線定期券だった。三島ならばそれも無理はない距離で、今なら珍しくもないけれど、この時はまだ新幹線定期が登場したばかりで、その分まで交通費を出す会社なんてほとんどなかった。三ヶ月で二十数万。東京で一人暮らしができるじゃないか。
「……………」
 女は俺の思案をよそに、トイレに行かせろと据わった目で命じてくる。北口通路を進んでトイレの前まで連れて行き、彼女が中へ入っていく。
 思えばこの時に立ち去ってしまえばよかったのだが、俺の意思はいくぶん揺らぎ始めていた。
「若いOLだからって、財布の金が少なくない場合も、あるか…」
 高いスーツにシックな指輪、新幹線定期…金持ちほど現金は持ち歩かない、という法則を忘れてはいないけれど、どこかあきらめ切れなかった。もしこれが、ミンクを羽織ってギラギラしたアクセサリーで飾って…という様な金のかけ方だったら、ただの若い独身貴族だから現金などあてにしない。でも、地味な仕事着が実は高級品なんていう渋い金のかけ方は、二十歳過ぎじゃなかなかできないだろう。ひょっとすると相当なお嬢様で、だとするとあらゆる常識は当てはまらない可能性もある…でも相当なお嬢様にしては、あまりに酔い方がはしたない。やっぱり違うのかなあ…。
「お待たせ、愛してるぅ〜」
 酒気をプンプンさせた高温の物体が、俺を倒さんばかりの力でしがみついてきた。吐くなり顔を洗うなりして少し落ち着かないかと期待していたのだが、無駄だった。そしてその後も、どうしたものか迷うままにズルズルと連れて歩き、挙げ句、バッグの中に現金数千万円があるのを発見したのだった。


= 中  略 =


「あーっ、暑いっ!」
 ハスキーな太い鼻声で叫ぶや、女は向かいの客も見ずに窓の両端へ手を掛け、勢いよく中ほどまで引き上げてしまう。びゅうっ、と音がして、たちまち十一月の夜風が吹き込んできた。ただでさえ冷たい上に、列車は時速百キロほどで走っている。
「また始まった…」
 風は隣にいる俺を冷やして、背後の立ち客へと流れていく。寒さを避けるというよりは他の客と目を合わせずに済むよう、俺は上着の襟を立てて下を向く。大きくなった列車の走行音にまぎれて、立ち客の舌打ちが聞こえた。ふんぞり返る様に腰掛けた女は、据わった眼でどこかをにらんだまま、はだけた上着の片襟でブラウスの胸をバサバサ扇いでいる。そこに形のよい二つのふくらみさえなければ、中年のおっさんだとしか思えなかった。
「……………」
 周囲から「なんとかしろよバカ!」という意思が俺に集まっているのが、痛いほど分かる。止めたら止めたで騒がしくなるのを見て知っているから、誰も何も言わないだけだ。車内はまだ混んでいるけれど、女の真向かいの席だけ人がいなかった。そこには少し前まで、さっき東京駅で俺を見ていた学生風の小娘が座っていたのだが、その娘がいなくなった後に誰も座ってこない。彼女も降りた訳ではなく、窓を開けるわ脚を伸ばしてくるわに耐えかねて席を立っただけのようで、結び髪の背中がまだ通路に見えている。
「なによこれ、寒いじゃないの!」
 自分が開けたことなど忘れたかの様な声がして、ぴしゃりと窓が下ろされた。この間、わずかに二、三分。女は襟をかき合わせてから、その手をだらりと両脇に下ろす。二重瞼が、少しずつ下向きにたるんできた。車内は混んでいるけれど、誰もが他人同士で話し声はしない。むしろ混雑のおかげで空気は隅々まで暖かく、レールの継ぎ目を踏む音も、こもる様に柔らかくなっていた。がくり、と女の首がうつむく。体がずり下がっていき、ハイヒールの先が向かいの座席下の鉄板に当たる。今度こそ、眠るに違いない…。
「暑っ!この電車暑い!」
 そこで女の顔がはね上がり、また窓が開く。
「…暑いのはお前だけだよ」
 襟を立てて下を向きつつ、俺は溜息をついた。東京を出てから約一時間、何回これを繰り返しただろう。ずっとこのペースで窓を開け閉めしてきた訳じゃないが、そのかわりに、腹が減った、喉が渇いたと言って騒ぐなどして、とにかく女は眠らなかった。
「寒い!凍死するうっ!」
 大声とともに女の上体が起き、窓を閉める音をさせて、そして元通りにふんぞり返る。それと入れ替わりに窓へ目を移すと、オレンジ色の街路灯を連ねた道路橋が見えた。下には広い河川敷が映し出されていて、こちらもそれを渡っている。
 渡り終えたところで、列車がスピードを落とし始めた。背後で、立ち客がデッキへ向かう気配がする。
「平塚、平塚。お出口は右側…」
 禁煙区間が終わるのを見越して、早くも煙草の匂いが一筋。平塚着は〇時半ちょうど。
 ポイントを通過する響きを聞きながら、俺は視線を女の膝のあたりへ移す。腰から膝上にかけてのラインを描き出す黒い布地の向こうに、茶色いバッグの端が見えた。札束を収めた不格好なふくらみが、薄緑色の内壁と女の腰の間から窮屈そうに顔を出している。この駅を境に乗客はぐっと少なくなり、三つ先の国府津に着く頃には、仕事をする環境が整う。
「待ってろよ…こいつが寝さえすれば、すぐに助けてやるからな…」
 しかし女の顔を見ると、まだ目が開いている。確かに瞼は落ちかけ、眼差しはトロンとしているけれど、それは東京駅を出る前からそうで、そのまま一時間あまりずっと眠らなかったのだ。


★サンプルはここまでです。これより先は、単行本『20,000,345M』にてお楽しみ下さい!




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