
『20,000,345M』作品サンプル
「なによ階段のくせにッ、クネクネ、クネクネ、曲がっちゃってさあ…うわっ!とっ、とっ、とぉー」
「危ない!」
階段の途中で派手にバランスを崩す女。斜め後ろについていた俺は、彼女のスーツの片腕をショルダーバッグごと受け止める。
ずしり、という重みが女のバッグから伝わってきたのは、その時のことだ。
「?」
安っぽいそのバッグに目を落とすと、茶色い革が不格好に四角くふくれていた。何を入れているのか知らないが完全に容量オーバーで、バッグの口を覆うはずのフードに隙間ができている。そしてその隙間から、大荷物の正体がチラリと見えた。
陰気な聖徳太子の顔。そして壱万円という三文字。
紙の下には厚みがあって、銀行の帯封が二重にかかっていた。四角い荷物は上から下まで、その紙の束であるらしい。
「な………何だこの女………」
カモの持ち金が多いのは喜ばしいはずなのだが、逆に俺は震えを覚えた。この稼業、普段のアガリはせいぜい三万。いくらなんでも桁が違いすぎる。それにこの、へべれけに酔っ払った二十歳過ぎのOLと、無造作に運ばれる現金数千万円という組み合わせ………宝くじでも当たったんだろう、で済ませてしまうほど俺の頭はめでたくない。ヤバいとか何とかを通り越して、訳が分からなかった。
「なに止まってんのよ!ほら、行くわよぉ!」
長い睫毛の下から、女の、猫みたいな瞳が険しく俺をにらむ。が、切れ長の目そのものは半分以上が厚い瞼に覆われ、さも眠たげにトロンとしていた。明日目が覚めても、このことを彼女は覚えていないだろう。
「♪赤ぁ〜い火を噴くぅ、あの山へぇ、登ろぉ〜、のぼろぉ〜」
意気揚々と、しかし右に左に蛇行しながら東海道線の階段を上がっていく女。その女に腕をからめ取られて引っ張られていく俺。酔いが引き出しているのだろうが、ものすごい力だ。時折、長い髪ごしに品のいい香水が匂うものの、すぐに体が発散する酒気がかき消してしまう。危ねえ!…サラリーマン連れにぶつかりそうになるのを、ギリギリで押しとどめて先方に平謝り。
「す、すみません!」
「いやいや、お見送りご苦労さん」
「彼女、御機嫌だねぇ…ダメだよそんなに飲ませちゃあ」
やはり一杯気分の彼らからニヤニヤ顔でねぎらわれ、しらふでペコペコする自分が情けなくなってくる。その間も俺は女に引っ張られ続けていて、ぶらぶら揺れるバッグが俺を繰り返し叩く。
だがもちろん、バッグの中身が何であるかを俺は忘れていない。
札束を積んで数えた経験などないが、少なく見積もっても二千万はあるだろう。それだけあれば、今の、盗ってはスッてという生活から一気に抜け出せる。そしてそれを持っているのは、ぐでんぐでんに酔った女。この分だと乗って座れば五分と意識は持つまい。小田原か、悪くても熱海を過ぎて人目さえまばらになれば、懐から財布を抜くより簡単だ。どんな金なのか…つまり、ヘタに盗るとヤバいことに巻き込まれるような金じゃないのかという不安はあるけれど、とりあえず誰かにつけられている気配はないし、様子を見る時間はこの後、小田原までだとしても二時間はある。それまでに考えればいいさ。
第一、こんな大チャンスはこれ一度きりに決まってる。狙うしかないだろ。このまま終わってたまるか!人生、のるかそるかだ………そう決めてしまうと、強く引っ張られる痛みは何でもなく、女の腕から伝わる酔っ払い特有の生温かさは心地よくすらあった。
「このホームの発車は、十番線、二三時二五分発、大垣行きでーす。隣のホーム八番線の熱海行き、反対のお隣十二番線の平塚行きが先の発車でーす…」
階段の先からダミ声の放送が聞こえ、続いて少し遠くから、ジリリリリリリリリ…というベルが聞こえ出した。熱海行きの発車ベルだ。七、八番線への階段は駆け足の人波になっているだろう。けれどもこちらはまだ人影が少なく、女が揺れながら階段を踏むたび、危なっかしいヒールの音が大きく周囲にこだました。
目指すは東海道線名物の長距離鈍行・大垣行き345M。もっとも俺は、その全行程の半分も乗らない。
俺が女を見つけたのは、丸の内北口を出てすぐの、駅舎に接した歩道の上だった。当時のこの付近一帯は、今以上にオフィスビルの他は何もなく、時期や曜日にもよるが、夜十時を回ると駅へ向けて歩いてくる人の姿はまばらだった。
「まだ、十分ばかり早いか」
改札の時計を見て、ふと俺はそう思った。早ければホームでカモを物色する余地は広がるものの、あまり早くからウロウロしていると駅員や公安官に怪しまれる。どういう仕草を避ければ疑念を招かずに済むかは知っているけれど、念を入れるにこしたことはない。
改札の駅員たちが鳴らす鋏の音に背を向け、高い天井を見上げながら北口の建物を出る。木枯らしが頬をなでてきてゾクッとさせられたが、風はさほど強くなく、煙草の火は一度で点いた。
「ん?」
右斜め前にそびえる国鉄本社の明かりを見て、さらに首を右へ向けたところで、座り込む人影を俺は見つけた。背中を駅舎の外壁に寄りかからせ、建物を縁取る石段に腰から下を投げ出している。ガクリとうなだれた首が、コクッ、コクッと上下する…外灯と建物のヒサシがそこに濃い影を作ってしまっていて、それ以上はよく見えない。上体にYシャツらしき白が少し見える他は、上から下まで真っ黒だ。
「……………」
飲み過ぎたサラリーマンだと思い、俺は目を凝らしつつ近づいてみる。しかしすぐそばまで行くと、うつむいた横顔は長い髪に覆われ、投げ出された脚はタイトスカートとストッキングに包まれていた。その両者と上着で肩から足まで黒一色、白っぽく見えたのは開襟のブラウスだ。酔い潰れて寝ているらしいが、この寒空の下、コートはどうしたのか…顔は見えないけれど、体型や雰囲気からして女はまだ若いらしい。
「なんだ、OLの姉ちゃんか」
そこで俺の関心は尽きた。財布を狙うなら、中年の、課長や係長といった風なサラリーマンに限る。もちろん昔も今も、親元から通う若者の方が小遣いは多いに決まっているが、なぜか日々財布に入れている現金となると案外少ない。特に女がそうだ。対して中年サラリーマンは給料前でもない限り、たとえ背広が安物でも財布には普通に一万円札が入っている。スリの様に一日に何人も狙えるならともかく、俺の稼業は一日一人がやっと、それも毎日はできないとなると、どちらを狙うべきかは言うまでもない…。
「ちょっとあんた、助けなさいよぉ」
うめく様な声とともに、いきなり袖を下から引っ張られた。
ギョッとした俺が下を見ると、腫れぼったくなった二重瞼の下から、女の片眼がギョロリと俺をにらみ上げていた。もう片眼も、乱れた髪の間で険しくこちらを向いている。五本の指は俺の手首をつかんだきり離さず、そしてぐいぐい引っ張り始めた。腰も立たないくせに握力だけはえらく強い。
「起こしてくえなきゃ、大声出すわよぉ!」
すでに大声だった。俺は立ち去ることをあきらめ、酒の臭いに耐えつつ女の両腕を抱える。
「なに触ってんのよエッチ!」
とたんに俺は拳を顔に受けて倒れ、そして女はよろよろと立ち上がった。俺も立ち上がって彼女を見ると、今度は目尻を下げてニヤニヤと笑っている。
「らいひょうぶよぉ。こえっくらいのお酒なんて、ひとりで、大丈夫なんらからぁ!」
そう叫びながら俺に向けて片腕を振ってみせるが、それと一緒に上体がぐわんぐわん揺れ動き、脚は脚で重心が定まらずにフラフラとステップを踏む―――歳は、短大か何かを出て二、三年というところか。酔って真っ赤なのを差し引けば色白の柔肌で、スーツの黒がよく似合うだろう。そのスーツが包む体はスラリとしていて、顔立ちも、瞼がちゃんと開いて眼が据わっていなければ男好きのする美女………なはずだが、今は色気も何もあったものじゃない。まるで中年の親父だ。いや、親父でもここまで見事な泥酔は拝見したことがない。まんまと引っ掛けたものの、たまりかねてここへ捨てて逃げ去る男の図が思わず頭に浮かんだ。
「じゃあね〜、また明日ぁ〜」
そう言ってクルリと背を向けるや、女は駅の入口へと歩き出す。千鳥足。不規則に鳴り響くヒール。すぐ左へそれ、続いて右にそれて、歩道と車道の境目で空足を踏み、真横に地面へ叩きつけられた。頭から勢いよく転ぶのが見えたので、俺は思わず駆け寄って顔を覗き込む。
「おい、大丈夫か」
「私、もうダメぇ…ばいばぁい」
肩に掛けたバッグが首の下に来ていて、頭が浮いていた。そのおかげか、おそるおそる抱き起こしてみても擦り傷一つない。運のいい女だ。
「あらぁ」
女は抱えられて向かい合わせになるや、ふたたび目尻を下げ、濡れて艶光りする唇をほころばせた。ただし瞳だけは正面をにらんだまま微動だにしないので、笑ったら笑ったでまた恐い。
「三島まで、送ってくれるんらぁ……悪いわねえ」
正直、聞く直前まで送るつもりなど毛頭なかったのだが、三島と聞いて俺はハッとした。
若いOLがえらい遠距離通勤なのに驚いたのもあるが、それだけではない。
俺の今夜の「仕事」にとって、おあつらえ向きの行先だったからだ。
「……………」
【 サンプル2へ続く 】
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