
雨が止んだら
七月上旬の雨が、アパートの前の紫陽花を濡らしている。
机を挟んで、私の目の前に、二人の少女、いや、教え子が座っている。
二人とも、私服姿。思い詰めた表情をしていて、一人の脇にはスポーツバッグ、もう一人の横にはリュックサックが、どちらも不器用にふくらんだ状態で置かれている。
「だから・・・あなたたちの年じゃ、よその土地に行くなんて無理よ」
私は、思い出した様にぐっと二人に顔を近づけて、先ほどから続けてきた説得の結論を繰り返した。それを聞いて、二人のうち少し前へ出ている方の生徒が、一瞬目の色に身じろぎを見せてから、奮い起こす様に、
「でも、ここにいても、いいことないし・・・っていうか、いられないじゃない!」
と、これも何度となく繰り返された答えを言う。
ただ、後半の語調がこれまでになく強かった。パチッとした目が、険しく見開かれている。すると、もう一人の、やや後ろに引いている生徒が心配そうに顔を曇らせて、
「かずみ・・・」
と、彼女の白いパーカーの端をつまんだ。「かずみ」は、ハッとして見開いた目を細め、うなだれる様にして彼女寄りにななめを向いた。
「すみません、大きな声出して」
「ううん、気にしないで」
二年の女子生徒二人が家にやってきて、駆け落ちするからと私に助言を求めたのは、もう二時間近く前になる。教師にそんな事を頼みに来るなんて無茶な話だが、彼女たちが私にそれを求めるのについては、心当たりがある。そして彼女たちの見当は半分当たっていて、私には、「教師という立場上これを阻止せねば」などといった思いはさらさらない。
とはいえ、未成年がひとりで職や住まいを求めるなんて、無理な話だ。都会にはそういう身柄を引き取る闇の世界があるけれど、それが彼女たちを幸せにするわけがない。
それで、もう二時間近くの間、こうして押し問答をしている。
「・・・でも、和美の気持ちは分かったけど、理恵もまだ、ホントに同じ気持ち?」
さっきから、私の説得に応戦するのはほとんどが「かずみ」こと和美の方で、少し後ろに引いている方―――理恵は、時々和美のセリフをフォローする以外、彼女に寄り添って事の成り行きを見守っているばかり。ふだんからの、二人の行動どおりだ。
つきしたがっている方に質問を振って、まとめてぐらつかせる、汚い策。
「私も、ここにいたくない!」
瞬間、日本人形みたいな色白のかわいらしい顔を真っ赤にして、理恵が、初めて会ってから今までで一番大きな声を出した。あわてて口を挟もうとしていた和美が、驚きの目でじっと彼女を見る。
策は、あっさり破れた。きづなは思っていたより深く、理恵は私の認識より強かった。
雨足が、二人が来た頃よりも、強くなっている。
和美や理恵と出会ったのは、私が今の学校にやってきてから半月ほど経った、4月の中頃のことだ。
この県で一番歴史のある商業高校。女の園、とまではいかないが、生徒の八割が女子。保守的な土地柄もあって服装や礼儀作法などには厳しく、少なくとも表面上は、このごろの都会のお嬢様学校よりもおしとやかな雰囲気がある。
放課後の私は、書類仕事や授業の準備を持ち込んで、図書室で過ごしていた。
出産や病気で休職する教員の代替として、あっちの学校に半年、こっちの学校に一年、雇われてはまた次を探すという身分を、何とはなしに私はかれこれ六年続けている。「都落ち」という意識で、大学に入るためだけにやって来たはずのこの地方も、すっかり私の「地元」になった。
六年もこんな仕事をしておいて何だが、もともと人と長時間接しているのは苦手な口だ。それは同僚についても同じで、だから一人でできる仕事は一人になれる所でやろうと、行く先々で図書室を放課後の居場所に選んできた。図書室には司書さんがいるが、なぜかこの職には私と同じ人種が多く、ここの三十前後の地味な顔だちの女性も、私や図書委員の生徒が声をかければ話になるけれど、あとはガラス窓で仕切られた司書室で机に向かっている。
四月の図書室は、特に落ち着く。新入生に図書室を居場所にするゆとりができるのは、連休明けから。在校生も忙しくて、四月いっぱいは利用者が半分になっている。だから、春の日差しが適度に入ってくる広い部屋に私ひとり、なんていうこともあって、いきおい時間が経つのを忘れて仕事や読書にふけることになる。
その日も、静けさを楽しみながら授業の下調べを終え、そのまま読書に突入していた。ふと、読書灯代わりにしていた日差しが弱まったのに気づき、ハッと時計を見ると、もう帰る時間。月末ごろになれば、部活や同好会の顧問を頼まれたりして、そうなると帰る時間だなどと言っていられなくなる。だから、今の時期ぐらいは少しでも早く帰りたい。ただ、本はヤマ場にさしかかっていたから、借り出すことにした。
教員のへ貸出は、司書さんが扱う。出口へ向かいながら司書室のガラス窓をのぞくと、司書さんは席を外していて、一緒にたまっていた図書委員の生徒たちも、もういない。
「さて、どうしよう・・・」
そう思って柱の角を曲がると、カウンターに、一人の女子生徒がちょこんと座っていた。びっくりしたが、助かった。
「貸出、お願いね」
「・・・あ、あの・・・」
顔を上げた女子生徒は困った顔をして、肩まであるつやつやした髪を、所在なげにいじり始めた。
「先生の貸出、やったことない?」
私が言うと、少しうつむいて、蚊の鳴く様な声を出す。
「・・・私、図書委員じゃ、ないんです・・・」
私が司書さんの机から教員用のカードを探す様に言ったりしたら、彼女は泣き出すんじゃないか、という気がしてきた。
が、そう思って私があきらめようとしたら、彼女が顔を上げて、はじめよりはいくらか明るい声で、
「あ・・・でも、もうすぐ、委員が、来ますよ」
それから、ちょっと間を置いて、
「その人は、きっと、頼りになりますよ」
と言った。最初の彼女は顔も声も、曇り空みたいに陰気な印象だったが、ここであらためて見ると、地味な顔立ちながらかわいらしかった。声も、鈴の様にコロコロして愛嬌がある。
この女子生徒が、理恵だ。
「じゃ、その、頼りになる委員さんとやらを、待ちますか」
あまりの変化に驚いたが、それは顔に出さずに、私はカウンターの横にあった丸椅子にかけた。
「そうだ、その図書委員じゃないあなたが、どうしてここに?」
私もその口だったから分かるが、どの学校でも図書委員会というのは漫画や小説が好きな子の部活みたいになっていて、委員でない子も当番を引き受けたり、司書室で作業していたりする。彼女もそれかと思ったが、そういう子は普通、少なくとも表面上は人当たりがよくて話好きなものだから、ちょっと不思議に思った。
「その子、・・・友達で、先生に用事があるって出かけてって・・・、待ってるんです」
理恵がふたたびうつむいてこちらを向き、途切れ途切れでそう言い終えたところで、バタバタと廊下を走る音がした。と思うと、カウンターの向かいにある入口の引き戸が勢いよく開いて、バン!と音を立てた。
「遅くなってゴメン!さんざん探したのに、山崎のヤツもう帰っちゃってたよ。帰るんなら誰かに言えよな、あのハゲ・・・」
元気よく現れた女子生徒―――これが和美だ―――は、くりくりした大きい目で理恵を見ながらそこまで言うと、私の存在に気づいた。さっき書いたが、ここは特に行儀作法や教師・生徒の上下関係にうるさい学校だ。和美の大きい目が驚きで見開かれ、サーッ、という血の気が引く音が聞こえてきそうだった。
「大丈夫よ、気にしないで」
かねてからこの学校の、というか教師集団のそんな空気をバカらしいと思っていた私は、笑顔とOKのジェスチャーとを作って、本心でそう答えた。すると、和美の表情が一気に緩んだ。
「先生、話せ・・・ますね」
口調が、まだ少し警戒している。
「まあね。・・・でも、ここだけの話よ」
「大丈夫大丈夫。それより、貸出でしょ?」
「ええ、お願い」
和美は私から本を受け取ると、まるで司書さんの様に司書室へ向かって行く。
「えーと、先生は・・・?」
「岡本・・・岡本瑞穂よ。四月に来たばっかり」
「あ!思い出した。・・・私、副委員長で、二年の内川和美です。カード、すぐ作りますね」
彼女は元の口調を取り戻したが、失礼でも何でもない。むしろ、生徒の中でもかなり気を利かせられる子で、軽快な話し方こそよく似合う。
「・・・あの」
和美が司書室の机に向かっている間、理恵が私に声をかけてきた。少し笑っていた。頬の上の方が、ほんのり紅い。声に張りが出ていて、血色まで良くなった様に見える。
私は目で「どうしたの?」と言う。
「頼りに、なるでしょう?」
「ええ、あなたの言うとおりね」
理恵の笑顔はどこか、宝物を自慢する子どもみたいに得意げだった。私の答えを聞くと彼女は振り返って、司書室の机にいる和美の方を見たが、あわてた様に向き直ると、
「あ、・・・私、二年の、長原理恵です。よろしくお願いします・・・委員じゃ、ないですけど・・・・・」
「岡本よ。よろしくね」
これはこれで、たどたどしさの中に精一杯の誠意が感じられて、心地よい。
「どうもありがとう。じゃ、気をつけてね」
「失礼します。カード作りましたから、また来てくださいね」
私は一度職員室に上がらなければならないので、階段の前で、そのまま昇降口へ向かう二人と別れた。ふと、彼女たちの後ろ姿を見ると、なぜかなつかしいものを見た様な気がして、しばらくそれを見送った。右手にカバンを持った、長い髪の、少し子どもっぽい後ろ姿が、理恵。そのすぐ左で、背の高い和美が左手にカバンを持って、ゆわいた髪をかすかに揺らしながら歩いている。廊下の窓から斜めに入る西日が、寄り添う様にして遠ざかっていく二人を照らす。
似合いの、二人。そういう恋愛があるのを以前に見て知っているせいか、一瞬だけ大真面目にそういう言葉を浮かべたけれど、その時は、まさかね、としか思えなかった。
アパートの窓の外は、相変わらず、上から下へまっすぐに雨が降っている。時計は午後五時を回っていて、だいぶ薄暗くなってきた。
「ちょっと、ゆっくり考えてみない?」
ついさっき、私は二人にそう言って、ダイニングに引き上げたところだ。テーブルに頬杖をついて、少し開けたキッチンの小窓から、降る雨をながめている。火にかけたポットのカタカタという音が、やけに耳につく。
うっとおしい雨の日にあてどもない議論をして、私もくたびれてきたが、彼女たちも疲れただろう。お互い、少し頭を冷やさなきゃ。
四月のうちに、やはり部活の顧問をすることになり、他にも持ってこられない仕事が増えてきて、毎日図書室というわけにはいかなくなった。
それに、ぐっと騒がしくなる。生徒のほとんどが女子なので、閲覧席やカウンターにできている人の輪から時々上がる嬌声はひときわ甲高く、余計に耳を突く。
そんなわけで私の図書室通いは、週に一、二回、放課後の始まりから少し遅らせて、生徒がある程度減ったのを確かめてから、という感じになった。
和美や理恵は、他の図書委員やもどきに混じって、相変わらず図書室にいた。
あの時で「店番」には懲りたらしく、理恵は司書室にこもったまま、時々ブックカバー貼りなどを手伝っている。一方、和美は性格らしくカウンターの仕事が好きで、合間に他の委員とおしゃべりしたり、指示を出したりしている。そして人が減ってくると、読みかけのライトノベルやアニメ雑誌などを持って司書室に入り、文庫の詩集や小説を読んでいる理恵の隣に座る。あとは、肩を近づけておしゃべりを始めるのが、早いか遅いか。
まるで、仲のいい幼い姉妹だ。もしかして一年中、一日と違わずこういう放課後なのか。
「部活とか、やってないの?」
私は、司書室にしゃべりに行って、和美に尋ねたことがある。
「ボクも理恵も文芸部。理恵、短い詩、上手だよ」
和美は、親しくなった相手には、ボク、と言う。
「そ、そんなことないです」
横で理恵が恥ずかしそうにかぶりを振る。けれど、文芸部だと活動場所はやはり図書室で、顧問は司書さん。書くのが加わる以外、やっていることは図書室の常連と変わらない。
「運動部とかは?・・・私もあんまり好きじゃないけど、和美は、そんな感じに見えるから」
「テニスやるけど・・・部活は、こういう時間が、なくなっちゃうから。昔の友達や、たまに理恵も入れて、地区センターに行ってるんだ」
確かに私も、休日まで練習や試合というのが嫌で、中学でやっていたバレーボールを高校では選ばなかったんだっけ。
ともあれいつの間にか、私はたまに司書室へ行って、そんな風に和美や理恵と話をする様になっていた。読み物の趣味に和美と多少の共通項があったのも理由だが、初めて会った時と変わらない、和美のさっぱりした人柄や、理恵が話す相手に見せる精一杯な姿に、好感が持てたからだ。それに何だか、これも初めて会った時と同じで、どういうわけかひどくなつかしい気分がしてしまう。それぞれに対してよりも、この二人が一緒にいる空気に対して、そう感じる。
それは、梅雨を前に急に暑くなって、夏服姿が生徒の半分ぐらいから一挙に全員になった、六月のある日だった。
伝統校そのままの古い校舎ゆえ、生徒の居場所に冷房は一切ない。授業が終わると、用のない生徒はクーラーのある場所を求めて、蜘蛛の子を散らす様に下校していった。
私はこの日、数日ぶりに部活も大きな仕事もない放課後だった。今日は図書室も空いているだろうとは思ったが、先日、ある全集を書庫で見つけ、とりあえず二冊ばかり借り出してきたのを、まだ少しだけ読み残していた。
司書室と書庫には冷房があるから、そこで読んで、すぐ次を借りてもいいのだけれど、最近、理恵が意味不明に不機嫌なことが多い。私と話している時に、和美が横目で彼女のすごいしかめっ面に気づき、大あわてで「ど、どうしたの?!」と取りなすこともあった。こういう子によくありがちな、特に理由のない一過性のものなのは分かるのだが、このところオーバーワーク気味の私には、そんな理恵が精神的にきつかった。
そこで、やはり冷房のある職員室でハードカバーを開いていたが、数少ないクーラーのある部屋ということで、普段は教科の準備室を居場所にしている同僚まで集まっていて騒がしい。空気も濁ってきて、生あくびがしきりに出て、ぼーっとしてきた。一時間ぐらいで、いくら読もうとしても頭に入らなくなった。そして、生徒が機嫌をそこねているからと言ってそれを避けているのは、いくら私が勝手な人間でも、さすがにうしろめたくなってきた。
私の足が、図書室に向かう。たとえ一、二度無視されても、今日は彼女と話してみよう。
階段を下りたところで、司書さんと出くわした。近隣の高校へ、何か取りに行くことになったという。
「てことは、閉館ですか?」
「ううん、遅くなるけど戻るし、副委員長がいるから。・・・あ、行くんなら、あの子たちが帰るまでいてもらっていい?・・・今日はもう、誰も来ないと思うけど」
「いいですよ」
和美たちだけなら、ちょうどいい。
長い廊下を、曲がり角を一つはさんで、図書室まで一分あまり。古い建築なので、校舎は高さが低いかわりに長さがやたらとある。
入ると、少しひんやりした。建物の配置の関係で、ここは風通しがいいのを思い出した。傾いてなお夏らしい日差しが、風にはためくカーテンに時折遮られつつテーブルを照らしている。言われたとおり人影はなく、音も一切聞こえない。すがすがしい光景。
それはいいのだが、司書室のガラス窓の向こう側もがらんどうで、和美たちの姿は見えない。
扉を開けて、中に入る。クーラーはついたまま。司書席の後ろにある長テーブルに、伏せた本が二冊、それにノートが散らばっていて、そのあたりの椅子が二つ、席を立ったそのままになっている。二人は、トイレにでも行ったのだろう。手に持っていた本の読み終えた方を返して、次の巻を持ってきてしまおうと、私は書庫の入口へ向かい、重い鉄の扉をゆっくりと開けた。
扉の先に、和美と理恵が、いた。
「・・・・・!!」
彼女たちは立ったまま抱き合って、壁を背にした理恵の首筋に和美が顔を埋め、理恵はうっとりとした顔を紅く染めていた。和美のしなやかな片腕が、理恵のスカートの中、ふとももの上の方に伸びている。
和美がサッと顔を上げ、事態を認識した私はとっさにドアノブから手を離す。扉が戻り、バタン、と閉じた。こみ上げてくる動悸に目を閉じると、扉に遮られる瞬間、理恵が濡れた唇に明かりを受けながら、目を細く開いてこちらを見たのが焼き付いていた。そんなはずはないのに、私に向かって薄笑みを浮かべている様に思えた。理恵が最近不機嫌にしていたのは、和美が私に取られるんじゃないか、って思ってたんだ・・・。
厚い扉があって何も聞こえないが、二人は今、凍りつき、あわてふためいているはずだ。「ご、ごめんなさい!・・・大丈夫、大丈夫よ・・・私、人に言ったりしないから」
周囲を気にしつつできるだけ大声で扉に向かって言うと、私は早足に司書室を出て、図書室を後にした。言葉は、本心からだった。二人がそういう関係だということには驚いたけれど、そういう関係が目の前にあったこと自体には、驚いていなかった。
秘密にしなければならないことを教師に見られてしまった、彼女たちの心中。これからどう彼女たちに接していいのか。そんなことを思ってどぎまぎする半面、ずっと二人の姿に感じてきた、なつかしい、という気持ちが、ぐっと高まってきていた。そしてこの時、自分の中の何が、私に二人をなつかしいと思わせていたのかが、はっきりと分かった。
隣の部屋から、言葉の中身までは分からないが、時々、和美が理恵にぼそぼそと話すのが聞こえる。少しは、「駆け落ち」の勝算のなさを冷静に見られてきたのだろうか。
だが、私の方が次第に落ち着きを失っていた。それまでの私の対応がまるで他人事な冷たいものに思え、私は心の中で、「この偽善者」と指弾してくるもう一人の私と、必死に対峙していた。
遠くの方で、獣の唸り声の様な雷が鳴った。
そういう恋愛を以前に見た、と書いたが、それは、第三者として見たのではなかった。
ついさっきまで、思い出しても何とも思わなくなっていた、いや、むしろよからぬ出来事だったと思ってきた、恋。
ちょうど彼女たちと同じぐらいのころ、和美みたいに元気な子だった私は、理恵の様にもの静かな同級生を、好きになった。麻美という、三つ編みと丸い眼鏡の似合う、詩人。彼女の前でドキドキするのを恋だと気づいても、「自分がおかしい」と悩んだりはせず、むしろ、恋愛といえば待っているだけだった自分が初めて積極的に動けて、そのことが快かった。その果てに、麻美も私の気持ちを受け入れてくれた。幸せだった。彼女も積極的になってきて、通学電車の中や遊びに行く時、ちょっと周りを気にしてから、ぎゅっ、と手を握ってきてくれる―――当時はまだ友達同士でする行為ではなかった―――のは、いつも麻美の方からだった。
しかしほどなく、私と麻美とは噂になり始めた。後で考えれば、女ばかりの学校ゆえ、そういう根も葉もない話は年中飛び交っていたのだが、世間から色眼鏡で見られる少数者はいつの世も神経質だ。夜も眠れないほど動転した私は、結局、人目や世渡りの方を取ることを考える。でも、別れ話を切り出す勇気もなくて、とりあえず学校では他人のふりをしているうちに、好意を寄せてきたバイト先の男と、恋人の様なそうでない様なつきあいが何となく始まった。入れ替わりに、麻美を思うことも、会うことも減っていった。
噂は、私に大学生の彼氏がいる、というものに変わった。
「瑞穂、・・・ウソでしょう?・・・ウソって言って!」
「・・・・・ごめん」
一週間ぐらいだったか、それから麻美が学校を休み、三つ編みにしていた髪を肩上まで切って出てきたその日から、二人は他人に戻った。
ほどなく私は、言われるままにその男に抱かれた。自分の中で、麻美が好きだったということはそれで完全に「一時の過ち」になり、私は以前の「待つだけの女」に戻る。言い寄られてつきあって、しばらくすると相手がベタベタしてくるのが嫌になってきて別れて、というのを何度か経験した。自分は男が嫌なのかと思い、ふっと麻美とのことを思い出す時もあったが、軽い嫌悪感とともに、そんなこともあったっけ、というだけだった。
それが、今、その時の麻美に恋い焦がれる気持ちをそのまま伴って、目の前によみがえっている。抱き合って愛情を確かめる和美と理恵が、相手の肌の温もりとやわらかさとを求める二人の姿が、美しかった。・・・彼女たちには何としてでも、お互いを愛してることを、ずっと大切にしてほしい。もし、大丈夫だよ、っていうのが分かってもらえてなかったら、ずっと奥底に潜んでて今ようやく帰ってきた私の感情を、人に初めて、打ち明けよう。「だから私は、あなたたちの味方だよ」、って。
夜、和美や理恵のことを考えているうちに、麻美のつぶらな瞳や、やわらかくて温かい感触が思い出されてきた。私は夢うつつのうちに、目の前の麻美に謝っていた。
「私、今度こそ・・・、あなたのかわりに、あの二人を大事に見守るから・・・・・」
でも、結局、昔の話をすることはできなかった。和美は私が来ると、気まずさのせいかよそよそしくて、思い切った打ち明け話ができそうな状態ではなかった。逆に、私に不機嫌だった理恵はそうでもなかったが、勇気がいる話だし、図書室へ行ける時間は限られていたから、二人一緒に聞いてほしかった。それに私の時と違って、彼女たち二人の仲に特に変わりは見えなかったから、安心してもいた。
和美と理恵に本当の悲劇がやってきたのは、それから一週間ほど後のことだ。
噂が立ったとかそういう生やさしいものではなく、どこでだか分からないが、教師と数名の生徒に、この間の様な現場を見られたそうだ。和美がそんな手抜かりを繰り返すのも変な話に思えたが、理恵の気持ちが不安定で、やむにやまれなかったのだろうか。だったら、私にも原因があると、言えなくもない。
どこでどうつながっているのか、話は二、三日で学校中に広まっていった。司書さんの要領を得ない話で私が事を知った翌日、「不純異性交遊」というおかしな件名とともに、二人の数ヶ月の停学が生徒指導部から職員会議に提案された。今の都会の基準で考えれば、異性であれ同性であれ、同級生と性関係を持ったのが処分の対象になること自体信じがたい。教師も、もはや高校生がセックスするなんて当たり前なのは知っている。しかし、東京から遠く離れたこの土地の伝統校では、建前が大事にされるとともに、万事が都会から一周遅れている。
提案と言っても、当該生徒と件名だけが知らされ、司会の「よろしいでしょうか」に誰も何も言わず、それで終わるのがならわしだ。そこで意見するなんて考えられなかったが、数ヶ月の停学というのは相場よりも重く、体裁を考えれば退学勧告に近い。・・・二人が、けがらわしいもの扱いされて、なかったことにされようとしている。肩を寄せておびえている和美と理恵の姿が閃光の様に頭に浮かんだかと思うと、私は立ち上がって発言していた。
「具体的に、どういう、案件なんでしょうか・・・、そ、それを聞かないと・・・」
口を開いてから、矢の様に視線が集中していることに気づいた。「あんた何考えてるんだ?!」という、目、目、目・・・。心臓が喉のあたりにせり上がってきて、それに塞がれる格好で、言葉が途切れた。
「あの、岡本先生は・・・二人のお話をよく聞いて下さってて・・・、ですから、ショックなんです」
司書さんが立ち上がって叫ぶ様に言うと、場の空気は若干和らいだが、なお嫌悪や好奇の視線が私に注がれる。
「そうじゃありません」
そう言おうと私の頭は思うのに、体はそれを許さない。他の教師はもとより、とっさにかばってくれた司書さんの心配そうな顔までが、私を突き刺している様に感じられた。
「・・・・・すみません・・・」
息苦しさに耐えかねてそう言うと、崩れ落ちる様に私は座った。涙がこぼれた。
後の事は、言うまでもない。
和美も理恵も、きわめて常識的な親によって自宅で軟禁同然の状態となり、会うことも電話もままならなかった。数ヶ月後に停学処分が解けたところで、学校に戻れるはずがない。さらに和美の家では、彼女を寮のある遠くの学校に移す話が進みつつあった。
その用事で両親が家を空けた今日、和美は身支度の上で家を飛び出して、一か八かで理恵の家の前に立ち、大声で彼女を呼んだ。果たして―――やはり神様というのはいるのだろうか、二階の窓が開き、飛び出さんばかりにして理恵が顔を見せた。その日、理恵の家も、彼女一人だった。
夢中でいったん駅まで行って、そこで落ち着くあてがないことに二人で気づいた時、岡本先生に賭けてみようか、と先に言い出したのは、理恵だったそうだ。
雨降りの夕闇の中、私は車を走らせている。ライトが照らし出す道にはしぶきが立ち、ワイパーを速く回していても時々視界が危うかった。バックミラーに、後部座席でちぢこまっている和美と理恵が映っている。私の決断をまだ信じ切れないのは、無理もない。
「特急と新幹線で、とりあえず東京か大阪、って考えだったんでしょう?」
和美が下を向いたままうなずき、理恵が細い目を精一杯丸くした。驚かずとも、大都市に出るのは家出の定石だ。そしてそのターミナルにはもれなく、家出少年を見つけるべく私服警官が日夜巡回している。
私が向かおうとしているのは、もちろん彼女たちの家でもなければ、二人が先ほど旅立とうとした市の中心駅でもない。車は今、隣の市に入ったことを示す標識の横を通り過ぎた。
・・・あの時、他の仕事なんか放り出して、和美に、嫌がるのなら捕まえてでも、図書室の外のどこかで話をすればよかった。せめて、二人一緒になんて言わないで、理恵だけにでも話して、取ったりなんかしない、あなたたちを大事に見守りたい、ってハッキリ言えばよかったんだ。・・・いや、本当に、必死に、大事に見守りたいって思ってたのか。なら、あの職員会議で、なんであそこで、私は人目を気にして立ち止まったりなんかしたのか。―――私は、会議でも、二人の前でも、ぜんぜん必死なんかじゃなかった。それどころか、昔、麻美に対してした冷たい仕打ちを、二人を相手にまた繰り返しただけだった。
しかし、それでも彼女たちは、けなげに私を慕って、そしてすべてを賭けて、ここまでやってきた。
たとえそれが危うい賭けであっても、今、この二人に応えられなかったら、私は、一生―――――。
「出かけようか。とりあえず安全な、遠くに」
まるではじめからそのつもりだった様に、私は隣の部屋でそわそわしていた二人へそう告げて、車を出したのだった。
出かけてから一時間ほどで、少しくたびれた市街地に入った。駅前広場の、駅舎から少し離れたところに車を停める。私は、二人の表情がさっきより少し落ち着いたのをあらためると、
「ちょっと、待ってて」
と声をかけて、叩きつける様な大雨の中に出た。
入口で、待合室の客の中に勤め先の制服姿がいないのを一応確かめて、窓口へ行く。時刻表を繰って手帳に走り書きをしてから、二時間ちょっと後に出る夜行列車の切符を二枚、それから、売店でパンと飲み物を適当に買って、車に戻る。
家を飛び出してから何も食べていないという二人がパンをかじるのを横目に、私は手帳の走り書きに付け足しをすると、ちぎって、切符と一緒に彼女たちの前に突き出した。
「食べながらでいいわ。・・・この列車に乗って、この名前の駅で降りて。ちょっと朝早いから、寝坊しないでね。で、こう、こう、と、乗り継いで・・・、これが、宿の電話よ。大学の後輩がしばらく行くって電話しておくから、ここを読んでおいて、そう言うのよ」
そこは、日本海に面したきれいな温泉町の外れにある、小さな宿だ。安く素泊まりさせてくれるので、大阪にいる気のおけない幼なじみと、もう五年以上、毎年一度はうさ晴らしに四、五泊しに行っている。すっかり顔なじみだから、私がそう言えばしばらくは疑われないだろう。
「一週間ぐらいのうちに、その、・・・なんとかできるから、そしたら連絡するわ」
私の差し出したプランに目を丸くしていた二人だが、まず和美、そして理恵の瞳が、不安に曇った。さっきまで自分たちの逃避行を無茶だの何だの言っていた人間が「なんとかできる」と言っても、にわかに信じられないだろう。
私は携帯電話のアラームをセットすると、彼女たちにできるだけ顔を近づけて、ゆっくりと言った。
「うまく言えないけど・・・今、あなたたち二人をなんとかする事に・・・、私、これまでと、これからの人生を、賭けてる。・・・出発まで時間があるから、私を信じられるかどうか、二人で考えて。信じ切れなかったら黙って車を降りて、東京や大阪に出るなり何なり、自由にしていいわよ」
そして、運転席に浅く座って、目をつぶった。二人がどうするか気が気じゃなかったけれど、夕方から今までの疲れに、いつの間にか眠っていた。
アラームが鳴る前に、私は目を覚ました。雨がフロントガラスを打つ音に状況を思い出し、ハッと後ろを振り返る。薄暗い後部座席に、二人はまだいた。眠ってしまった和美に寄りかかられながら、理恵が燃える様な鋭い眼差しで、じいっ、とこちらを見ていた。
それが、返事だった。
目頭が熱くなるのをごまかしながら、私は笑顔を作って言う。
「まあ・・・しばらく、何にも考えないで楽しんでてちょうだい」
「はい」
間を置かずに返ってきた張りのある声に、私も、この二人の強さを信じ切った。
夜行列車の改札が始まったのに合わせて、二人を送り出す。少なくなった車が照らす雨の中を、和美が理恵の手を取って走っていく。理恵がよろけそうになると、和美が立ち止まり、理恵が横に並ぶのを待って、また駈ける。列の一番後ろの客が改札を受けているところに追いついた。和美が大あわてでズボンのポケットを探り出すと、理恵がゆっくりとかがんで、和美のカバンからひょいと切符を出した。そこでバスが通って私の視界を遮り、次の瞬間、二人は改札の中に消えていた。
ひどい雨に霞む夜行列車の明かりを見送りながら、私はもたれかかる様に運転席に座っていた。
考えてはみるけど、誰かに何とかしてもらえるあてなんて、たぶんない。稼げる時間も限られている。きっと、私が教師とおさらばして、行って引き取って、それから、どうするか・・・。
でも、何の展望もない上に、いきなり職を放り出す事態になったのにもかかわらず、私は一仕事終えた様な心地よさを感じていた。次に和美と理恵に会ったら、私が何であなたたちに手を貸したのか、昔のことを含めて、じっくり話をしよう。それで、今度こそ、死にもの狂いで、あなたたちを守る。
なんとかなるって。あなたたちは、あの頃の私と違って、強いもの。・・・私の、仕事?どのみち教師は向いてない仕事だったし、貯金、けっこうあるのよ。その後は・・・うーん、他に取り柄なんかないから、いざとなったら、生きるために割り切って、また頑張るしかないのかな。・・・でも、あなたたち二人がずっと仲良くしてくれてたら、どうでもいいよ、そんなこと。
雨は、弱まる気配がない。明かりがなくても雨の筋が見える。ラジオをつけると、注意報が警報に変わったとアナウンサーがしゃべっていた。七月の上旬、この土地には必ず豪雨がやってくる。川をあふれさせ道路や田畑を洗い流し、一昼夜ほどの間、さんざん荒れ狂う。
でも、それが通り過ぎると梅雨が明けて、そして、まぶしい夏がやってくるのだ。
(完)